日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS さぁ、見に来てごらんなさい。 ヨハネ4:27-42 2009/2/15

<<   作成日時 : 2009/05/05 22:05   >>

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ヨハネ福音書を学ぶ上で抑えておくべきいくつかのポイントがあります。
まず物語の構成です。
冒頭に、何かひとつの出来事とかあるいは事柄が示され、問題提起されます。
そして、そこに登場してくる人物あるいは弟子たちとの対話が繰り広げられます。
次に、主イエスとその相手や弟子たちとのやりとりがあるのですが、どうもそれがすれ違ってちっとも噛み合わない。
それを解きほぐすように、主イエスは福音を語られ、いろいろとそれについて説明を加えてくださいます。
時にはそれが、主イエスご自身のお言葉であるのか、この福音書を書いたヨハネ自身の証言、あるいは弁証・主張なのか、見分けがつかなくなる場合も少なくありません。
しかし、このことは、ヨハネ福音書は内容が混乱して解らないとか、いい加減だとか、主イエスの言動を正しく伝えていないというのではありません。
むしろ、主イエスのおっしゃった言葉の深さ、豊かさを感じさせられます。
ヨハネ流の解釈によって主イエスのおっしゃった言葉が引き立っているということができるでしょう。
これがヨハネ福音書の特色であると同時に不思議な魅力とだと思います。

さて、今週もサ

マリアの女との出会いの箇所の続きです。
先週も学びましたので詳しい内容は割愛いたしますが、背景をもう一度おさらいいたします。
さて、エルサレムからガリラヤの方に行くには、三つのコースがあります。
西の地中海沿いを通るのが海の道と呼ばれる一番気持ち良く安心なコースです。
東のコースは、ヨルダン川の渓谷沿いのコースで、エリコの方に出るコースです。
最後に、中央コース、いわゆる族長コースと言うのですが、ユダヤ人と敵対関係にある歴史を持っているサマリアを通るルートです。
いやな人々の居る所を、顔を会わせながら通らなければならない。
非常に誇り高い純粋を尊ぶユダヤ人にとっては、それは耐え難い屈辱でした。
危害を加えられ、盗賊に遭いやすいルートであったとも言えます。
そこで、だいたいガリラヤからエルサレムに行くにしましてもヨルダンのコースを通るのが一般的でした。
しかし、今回主イエスはわざわざ遠回りをせずに真っ直ぐこの族長の中央コースを通られて郷里のガリラヤに向かわれたのであります。
どうして、このコースを選ばれたのかは説明がありません。

ユダヤ人からは、サマリア人は歴史的に自分たちとは違う者だと軽蔑されていました。
これはアッシリア、バビロンのいろんな侵略のときに、彼らが混血をしたという、節操を曲げて混血をしたという事柄があります。
これも戦争の結果です。
けれども、ユダヤ人は血の純粋を尊びました。
その純粋は、同時に信仰の純粋に通じると、彼らは確信していたのです。
ですから、第二の神殿を造ろうというときにも、サマリアの人たちが“私たちにもエルサレムの神殿再建に奉仕させていただきたい”と申し出たにもかかわらず、ユダヤ人はキッパリと拒否しました。

それ以来、サマリア人とユダヤ人との間は一層険悪になって、数百年経ったこの主イエスの時代においても、そのしこりが残っていたわけです。
またこの女もどうかと言いますと、夕方みんなと一緒に連れ立って水を汲むに来ることができない、そういう素性、あるいは職業に就いていた者であっただろうと思います。
仲間から蔑まれ、人目を忍ぶ生活をしていたわけです。
この女は二重の意味において、そこに重荷を負っていたのです。
どうしても、他人の思惑とか、あるいは他人の目を意識しなければ生きていけない人間。
これは決してサマリアだけではなくて、今日の我々においても良く分かる点であります。
しかし、主イエスと出会うことによりまして、そのようなことが全く虚しいものであるということを、確信するようになったわけです。
軽蔑、あるいは蔑み、あるいは僻み、恨み、憎しみ…。
だいたい軽蔑され、あるいは差別扱いされている人たちというのは、こういう意識を非常に持つわけです。
怨念などと言うわけです。
そしてまた虚勢を張る。強がりを言う。
たぶんこの女の人は、そういう心のなかの弱さを逆に、逆手にとって強がりを言いながら生きていた人間だったのだろうと思います。
しかしながら、主イエスのこのような愛のこころに触れて、心のなかにある変化を経験したわけです。
その経験というのは、“軽蔑された人間をも、なお、寛大に扱う”とか、あるいは、“蔑まれている人間に対して、広い心で受け止める”、そういう同情ではありません。
甘やかしや寛容とは違う、もっと根本的な、自分の負の部分のも見抜いたうえで、自分を受け入れてくれる、そういう厳しいけれども大きな限りない愛です。
この女性は、“この旅人は、そういう愛をもっていらっしゃるのではないか”ということに触れたわけです。
自分の生き方がそこで問われるような、そういう愛です。
そのまま受容してしまうのではなく、本人に自分は何者であるかとハッキリと自覚させる、そういうものは、やはり、福音に拠らなければならないのではないだろうか。
この女は“イエスと会ったことによって、自分の人生が180度転換したことに非常な自信や不安ではなく、喜びを持った”ということです。
“喜び”。
もうただただ人目を避けて強がりを言っていた自虐的な女が、喜びを持って、自分の町スカルの人たちにこのイエスのことを知らせたい一心で、町へ帰って行ったのです。
29節に、「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
これは、キリストかどうか分からないけれどもという意味ではありません。
“かも知れません”というのは謙遜の表現であって、調べに、鑑定に来ていただきたいということでは決してないわけです。
“私自身がこのような思いになったのですから、あなた方も一緒に来てこのイエスにお会いになったらどうでしょうか”。
彼女は自分の恥ずかしい過去、人に知られたくない、会いたくないという、そのようなものに捕らわれず、また、イエスに対する信仰の未熟、“この人がキリストかも知れません”というのは、そういう意味です。
まだ十分イエス・キリストについて、弟子たちと同じように知っていたわけではありません。

直感的にキリストに出会ったことを体感したのです。
本来、信仰の初期段階はそんな直感的なというか、抽象的なあやふや感覚に支配されるものだと思います。
雷に打たれたように信仰生活に入る人もおられるでしょうが、大半の人はこのように
この女性はそのような自分自身を恥じることなく、大勢のサマリア人の前に自分自身をさらして、「さあ来て見てください」、そのように語りました。

聖書には、一つの話の流れの中に、別の話が挿入される箇所がよくあります。
サンドイッチ形式と呼ばれ、物語の臨場感を出す演出がなされます。
今回も食べ物を買いに行った弟子たちのことが描かれ、弟子たちとイエスの会話がそこに挟まってくるのです。
ですから、30節、「人々は町を出て、イエスのもとへやってきた」、というところは、39節につながります。
そして、31節から38節までは、弟子たちとイエスとの会話になるわけです。
弟子たちは日頃、裏切り者とか、汚らわしい者と軽蔑したサマリアの女、一見してあやしげな身持ちの女と見える者を相手にして話をしているイエス様の様子を見て、「不思議に思った」。
この不思議はwonderfulという意味ではありません。
むしろこれは、“不審に思った”という意味です。
“不審に思って驚いた”“違和感を感じた”ということで、非常に驚いてしまった。

しかし、そこではそのことに触れずに、“先生、さぁ、ずいぶんお腹がお空きでしょう、召しあがってください”と、弟子たちは食物を出したわけです。
ところが、そのように食物を出された主イエスは、32節で、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。ここが、さきほど申し上げた所です。
弟子たちはお腹が空いているから、イエス様にご飯をさしあげよう。
そしたら、先生は、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。そういう全然噛み合わないお答えが帰ってきたわけです。
“わたしには、あなたがたの知らない食物がある”。“それだったら、もう私たちは買いに行くことはないんじゃないでしょうか”、という弟子たちの反論が出来そうでありますが、ここから、“イエス様の食物は何か”と、34節以下に述べられているのです。
このことは、ヨハネ6章の第4のしるしにもつながる伏線になっています。
ほかの福音書はとても大規模な奇跡が行われたことを記録していますが、ヨハネ福音書はこの出来事の前にこのようなしるしの根拠を置いているのです。
「イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」」。
これは、イエス様にとっての食物ということです。
つまり、食べ物とは何かといいますと、“私たちのエネルギーの根源”と言ってよいでありましょう。
いろんなご馳走というのではなく、食べる物というのは、肉体の生命を維持するために必要な材料であります。
“わたしの食物”とイエス様がおっしゃっておられるのは、もちろん食べ物の次元ではなくて、もうひとつ深い、たましいの霊的な次元で語っておられるのです。
“わたしの食物は、わたしをお遣わしになった神様の御心を行って、それを成し遂げることである。完成することである”、これは重大な言葉です。
これは線でも引いておきたいところです。
このようにおっしゃっているのです。
イエス様にとって、“わたしの人生のエネルギー源は、神のみこころを行うことだ”、しかも単にそれを行うということだけではなく、それを“完成することだ”。
単に実行するというのではなくて、それを完成することだ。


イエス様の神様から委ねられた御業というのは、“人間の救いのために、自らの命を捧げて、十字架にお架かりになって、救いを全うする”、ということでした。その“救いを全うするために、救いを完成するために、やって来るということ、それが実はわたしの生命の根源である”ということです。
これは、私たち信仰生活をする者にとって、非常に聞き捨てならない重大な点ではないだろうかと思うのです。

“クリスチャンは、どういう者だろうか”と聞きますと、多くの場合に、“イエス様の教えを実行することだ”と考えている人がいます。
“イエスの教えを実行するのがクリスチャンだ”。
ところが、この実行ということになりますと、どうもそれが思うように行かないのが人間でありますから、“お前はクリスチャンなのに、どうも実行という点になると、いまひとつどころか、二つも三つも感心しない。
それでもお前クリスチャンなのか”、ということで責められますと、私たちはにっちもさっちも行かなくなって暗礁に乗り上げてしまう。
人からそう言われるだけではなくて、自分自身も“やっぱり自分は駄目なんだな”、ということになってしまうのです。
いうこう精神は、いわゆる儒教的な精神ではないかと思うのです。
キリスト教的なものと全く発想が違うのです。
単に実行が大事、行うことが大事という行為至上主義では決してないのです。この点は大事です。
しっかりと確認していただきたいと思います。
“イエス・キリストが我々のために救いを全うされた。その成就された方と共に実行する”、ということなのです。この点が大事です。
私たちは一所懸命にやりましても失敗することがある。
あのペテロのように、波の上を歩いてヒョイとイエス様から目を離したらドドッと水に沈んでしまったということがあります。
その時にペテロはイエス様に救いを求めました。
イエス様は彼をたしなめながら、波に沈んだペテロを引き上げられました。
実行、実行と言っていますと、我々は必ず世の荒波に目をそらされて、ついキリストから目をそらして波間に沈んでしまうのです。
けれども、私たちの救いを成就されたその方が傍にいらっしゃいますと、私たちが波に飲まれたときでもすぐに私たちを引き上げてくださいます。
キリストを目指して波の上を歩こうとした彼に、何度でも救いの手を伸べて引き上げてくださるのです。
もう懲りたという発想は、これは実行主義の人に多いのです。

その点、この女はイエス・キリストとの出会いを通して、今まで持っていた自分自身の価値判断が全く誤りであったことに気づいたのです。
人から何か言われると、「うるさいわね、余計なお世話よ」と反撃していたけれど、本当は自分でもこころのうちで良くないと思っていました。
人目を、人から何か言われることを絶えず気にして生きていました。
そういう人間が、そんなことを全く気にしないイエス・キリストに出会って、そして、自分の罪が赦されたことへの喜びを、堂々と喜んで、そして、町のたくさんの人を連れて来ようとしたのです。
39節に「この町からきた多くのサマリア人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」と証しした女の言葉によって、イエスを信じた」、ということですから、いかにこの女が真実に訴えようとしているかが分かります。
主イエスはヨハネ福音書17章4節で、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」と言っておられます。
“成し遂げた”。成し遂げるということは、“あなたの栄光をあらわした”ということです。
神様の御心にかない、神様のみこころを完全に表明した、実現した。
これは、最後の晩餐のときの主イエスの祈りですね。
人間の知らないまことの食物を人々に与えるために、自分は神様から与えられた食べ物であると、これが聖餐の秘儀に通じるのです。
つまりこの女は、水でなく食べ物でもなく、たましいの命、たましいの水によって、こころの体質が全く新しくなったわけです。
このサマリアがその後どうなったのか、聖書には記されていません。
聖書は、そのような関心は全く、全然触れていません。
しかし、触れていないということが、忘れてしまった、あるいはいなくなったということではありません。
この女は、“イエス・キリストとの出会いによって与えられた喜びを胸の中に秘めて、その命の水によって人生を生きた”ということを証ししているのです。
書かれていないことによって言っている、ということがあるわけです。
そういうことは、他にもたくさん出てきます。
あのイエスと出会った不倫の女の箇所もそうです。
主によって墓から呼び出されたラザロもそうです。
なぜ彼らのその後について聖書は触れてないのか。
それは、イエス・キリストによって、本当の自分自身をそこに発見して、喜びに生きる者となった。
いのちの水を絶えずいただいて新しくされて生きるという、こういうことが彼女自身において出来たということによるわけです。
沈黙によってそのことを証ししているのです。
書かれていることだけが本当だと思わない方がいいということです。
書かれてないことによって証しされている、そういう真理もあるのです。
だから聖書は面白いといえるのですが、私たちも主にあってこうも変えられた、自分自身が変えられ、あなた自身が変えられる主との出会いを分かち合って生きたいと思います。

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