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zoom RSS 主を第一として生きる 2009/5/3 夕礼拝 アモス8:1-18

<<   作成日時 : 2009/05/05 22:04   >>

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昔からおもしろい議論がありました。
“神様は天地をお造りになりました。
そのあとは、神様はその天地とか被造物をそのまま、かってにやってくださいとほったらかしにされた。その後、神様は世界に手を出されない”、
だから、神様は世界への介入をなされない。
すこし難しい話ですが、これは理神論という考え方です。
思想家のルソーなどがそうです。
ヴォルテールとかカントなど、名前だけは聞いたことのある学問的に素晴らしい働きをした面々がそうです。
この考え方は、“神様は天地を造られたけれど、実はあとは全然手出しをしない。宇宙は勝手に進化しているだけ”というものです。
しかし、本当にそうでしょうか。
神様は、歴史を正しく導く、あるいは、愛をもって人類をなんとか御救いになろうとして、配慮していらっしゃいます。
その頂点に、救い主イエス・キリストをお送りくださったわけです。
ですから、神様が働いていらっしゃることを知るためには、我々はイエス・キリストを見ればよく分かるのです。
神様は何をお考えになっていらっしゃるか、
神様のお考えは何かという場合に、イエス・キリストを見れば、我々は非常にはっきり承知することができるのです。

紀元前8世紀の中頃、北王国イスラエルはヤロブアム二世の長期政権のもと、繁栄と同時に深刻な宗教的堕落にありました。
北王国はやがて721年にアッシリアの攻撃を受けて滅亡する運命にあります。
そんな崩壊直前の時代に召命を受けた預言者アモスは、「一籠の夏の果物」の幻を見ました。
熟して腐りそうな果物はこの時代の爛 熟したイスラエルの状態を示しています。

お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。
これは当時、旧暦ですから月初めに仕事を休んでお参りをしました。
口語訳聖書ではこうなっています。
「そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、」これは秤をごまかすということです。
「乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう」。これは汚職をするということです。
金銭の汚職、物の不正な横流しといったようなことを言っているわけです。

豊かさのゆえに、商人たちは秤をごまかして不正な利益を得、国民の間に貧富の差が広がり、金持ちが貧しい人を奴隷のようにこき使っていたということです。
そして人々は形式的な神殿礼拝は盛んに行ないましたが、信仰の心は伴っていませんでした。
アモスはこのような社会的な不正義や信仰的偽善の根底に主の言葉への飢えと渇きを見たのです。
人々の心がこの世の利益のみに向けられて、神のみ心を求めることが忘れ去られるから、人間らしい生き方は失われてしまうのです。

理不尽、無差別な殺人事件が続発する社会の奥底にはアモスの指摘した病巣があるのではないでしょうか。



つまりこういう人たちは、“安息日なんて非常にじゃまなものがあるものだからわれわれの商売に支障をきたす、そして使用人を働かせる、みんなが休んでいる安息日にこっそり働いて使用人を休ませない、儲けることしか考えていない”、そういうことに対して、“否”とアモスは苦言を呈するのです。
つまりここで言われているのは、社会正義とか公平ということです。
ですから私たちが、なんてばかばかしいこういう安息日なんていう制度をつくるのだろうか、そして、いまもこだわり続けるユダヤ人が、ユダヤ教徒が多いということは、いったい何事だろうということですが、こういうところに問題があるわけです。

このアモスの預言は現在の日本社会へも向けられています。
ヨーロッパなどでは、お昼休みをたっぷり取っているそうです。
そして夕方頃に店を開けて6時になると店を閉めてしまう。
一体いつ営業しているのだろうか、と思うくらいだそうです。
日本のように、とにかくなんでも24時間営業、どこに行っても何でも買える、
これは、すごく便利です。
日本人にとっては、それは非常に受け入れやすい発想ですね。
働くことを美徳とし、休むことをマイナスのイメージを描きがちな日本人的な心情がそこに働いているのです。
“お忙しいですか”と問われて、“はい、忙しいですね。”と答えれば仕事をしているように思われる。
逆に“いや、暇で、暇で…。”などといったら、これは半人前、あるいはうそつきだと思われる。
忙しい人間が有能な人間であって、人間らしいと思っているのです。
忙しくない人間、それは役に立たない無能な人間というように解釈しがちです。
つまり、働くというのは美徳であり、休むというのは怠けものの発想になるのです。
これは我々の身に付いている日本人の体質でしょうか。
ところが世界の中に出ていきますと、“日本人は働きすぎでアンフェアだ”と非難される、何がアンフェアなんだ…。
諸外国と歩調が合っていないということなんでしょうか。
人間的なものを棚上げしてしまって、ひたすらに経済的な効率のみに走る。
私たちはそのことに気がついて、やっと、最近では、そういうことはいけないことだと、これは日本人が本当にそう思ったかどうか疑問なのですが、そういう風に気がついたふりをしないと、外国から相手にしてもらえないということになって来ている。
これは第一歩として大変良いことなんじゃないだろうか。
我々の考え方は一つの考え方であって、絶対のものじゃない。
アンフェア、つまり、安息日の精神の中に、アンフェアなそういうものが流れているということです。
安息日があることによって、アンフェアがそこにおいて自覚されたり、あるいは裁かれたりするということです。
私は、安息日問題は日本人にとって反面教師的な内容を備えているのではないだろうかと思うわけです。
そして、主イエスは、この安息日に対してどういう態度をとっていたか。
「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。
“神様がお働きになって、さらに、日曜日だから、安息日だから休もうというようなことはないだろう”。
しかし、これは初代にはかなり議論をかもしたことなのです。
“いったい神様に安息日があるのかどうか”。
これも古典的な論議であります…。
“いや、きっと神様も安息日に休まれたに違いない”、こういう考え方がありました。
しかし主イエスは、こうおっしゃった。
「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。
働くために休むのか、休むために働くのか、
神様が不眠不休で働いてくださるように、私たちの信仰生活には休みはありません。
神の恵みに感謝して歩みましょう。

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