日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 主を第一として生きる 2009/5/3 ヨハネ5:11-18

<<   作成日時 : 2009/05/05 22:01   >>

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先週来、豚インフルエンザが世界的に流行の兆しということで、その発信源のひとつであるメキシコでは、カトリック教会がミサを取りやめたというニュースがながれました。
今週は19節からの予定でありましたが、安息日について学びたいと思います。
くしくも大型連休の中の日曜日です。

エルサレムにおきまして、38年間病気であった者に主は癒しをお与えになったわけですが、たまたまその日が安息日だったことを先週学びました。
安息日というのは、ユダヤ人たちがとても大事にして守っていた掟です。
ユダヤ人と主イエスはこの安息日をめぐって論争しました。
“真の安息日”というのはどのようなものであるか、そういうことが述べられていくわけです。
つまり、ユダヤ人の憲法であり、生活そのものとも言うべきモーセの十戒の第4条に、安息日についての規定があります。
これは旧約聖書の出エジプト記の20章と申命記の5章に書かれています。
この安息日をユダヤ人は自分たちの生活の中心として守ってきました。
元来の意味は、安息日というのは、へブル語では“シャバット”と言います。
これは“中断する”という意味です。
日常の生活、日、月、火、水、木と、進んできたものが、金曜日の夕方から土曜日の夕方まで、中断する。これが安息日というわけです。

その日には何もしないということだけではなくて、その日に“神を心から讃美し、神を思う”、そういう時として定められました。
そして、これを尊びなさい、それを生活の中心にしなさい。ということです。
安息日は他の一週間の一日と区別して、労働、働くことを休む日として定められ、守られてきました。

この安息日規定は、家族、使用人、異邦人とか、家畜にも及ぶべき神様の意志だとして尊重されていました。
自分だけ休んで、使用人は休ませないというのではなくて、とにかく、この日は全部、家族をあげてお休みということになったのです。
そして、この安息日は、仕事を休むという消極的なものだけではなくて、安息日を覚える日として重要視されました。
かつての日本の「盆、暮れ・正月」、「産前産後の里帰り」しか休まなかったのとはずいぶん違います。

皆さん方は、安息日、お休みの時は、何かを思い出す日でしょうか、何かをする日でしょうか。
あまり関係はありませんが、ETC割引で、高速道路は1000円で乗り放題だそうです。
コンビニや大型スーパーでも割引セールを展開し、日本では休み=経済効果と考えられているようです。

一方ユダヤ人たちは、二つのポイントがあったわけです。
これは、出エジプト記を見ますと、神様が天地をお造りになった、6日の間、創造されて、7日目に休まれたとあります。
そこに神の救いあるいは祝福の完成が現れていると考えられます。
それは、おめでたい、という意味につながります。
“神様の創造の業をここで思い起こしなさい、神様は絶えず新しい創造をなさる方だ”、ということですね。
しかし、申命記の方にまいりますと、重点が少し違います。
“神がモーセによって、奴隷の地であるエジプトからイスラエルの民族を救い出された、そのことを祝う”という日になっているわけです。

これは出エジプト記の方が正しいのか、申命記の方が正しいのか、ということではありません。
救いというものの重点の置き方の違いで、そのいずれかではなく、その両方であったと思います。

ある人は、この“安息日を覚えよ”ということは、この日を神に返すべき、そういうことをもう一度新しく思い起こす日である、と述べているのです。
神に返す…。

私が神学校で旧約聖書を学んだ森本先生によると、神様は最後に安息日を創造された。とおっしゃっていました。
それも一理あるなあと思います。

あるエルサレム駐在の日本人特派員のコラム記事にあったお話です。
「ある晩、戸をこつこつとたたく音がした。だれかと開けてみると、初老の婦人。同じアパートの住人だといい、「あなたはユダヤ人じゃないでしょう」と聞く。「日本人だと答えると」私の家のガスが漏れているみたいなので、栓を閉めてほしいと言うのだ。
このおばあさんの部屋のガスが今、シューシュー漏れているのです。
ガス漏れに気が付いたのだから、自分でちょいっと栓を閉めればいいのです。
早く閉めないと、何かの火に引火して爆発してしまうかもしれません。
しかし、ガスの栓を閉めることは戒律破りになるからできないと言うのです。
だから、戒律に関係ない日本人の新聞記者に栓を閉めてくれと頼みに来たのです。
これは現代のことです。
もうひとつ、
日本に来たユダヤ人がこの安息日、金曜日の夕方から土曜日の夕方、つまり土曜日になりますと、電灯のスイッチをオンにしたりオフにしたりしないというのです。
オンにしたりオフにしたりすると、これは労働というように解釈するのです。
滑稽なのは、女の人が鏡を見て白髪を抜くのも労働ということなんだそうでありまして、そういう点ではだいぶ違反をしている人がユダヤ人の中にもいるのではないかと思われますけれども、だから鏡を見るなというのですね。
鏡を見ると抜きたくなる、顔をいじりたくなるということでしょうか。
そこでオンとかオフにできないものですから、アルバイトを雇って週に一度、金曜日の夕方から土曜日の夕方までスイッチを操作させたというのです。
2000年前の戒律重視はどれほどだったでしょう。
異邦人と話をすることも禁じられていましたから、同じアパートに住む日本人に頼むことはできなかったことでしょう。
もっとも、まだガスはありませんでしたが…。

キリスト教の時代になりまして、イエス・キリストの復活を記念する日、礼拝する日は日曜日に移ってまいりました。
中にはセブンスデー・アドベンティストという教会では土曜日に礼拝を持っている教派もあります。
その教派の人たちは、土曜日は学校もお役所もみんな休んでしまう。
そういうことを平気で、あるいは勇気をもってするのだそうです。
多くの障害があると思いますが、その障害をものともせずに、こういう信仰を持っている人たちもいるわけです。

当時のユダヤ人たちにとりましては、この日は“神様が私たちに対していかに多くの恵みある御業を為したまうか”、ということをもう一度思い起こす日。
それを思い起こして、また新しく一週間を始める、一日を聖なるものとし、そのあとの俗な中をまた生きるということで、非常にこの安息日を重んじたわけです。

しかし、安息日を重んじるあまり、自分たちの生活が苦しくなってきました。
現代でも、ガス線を自分で閉められないほどに守らなくてはいけないなどと言うのはまさにその名残です。
人を幸せにするための安息日制度が、人を束縛し、その人の命を殺す方向へ働いているといえるでしょう。

最初はその精神、信仰が重んじられていたのに、時が経ち、世代交代していくと、その精神が失われて形だけが残った戒律となってしまっていたのです。
イエスの時代にも、すでにそういう末期的な症状にあったのです。
古いユダヤのいろんな規則、ミシュナーというのですが、規則の中に、安息日にしてはならないという39条のリストがありました。
その最後のところに、“この日には、どんなものであれ運搬してはならない”という項目があるのです。
たとえば、私たちがユダヤ教徒であるとすると、自動車や自転車を運転して礼拝に来るということは、“律法違反”になります。
自動車を運んでくるわけですから。
運搬ということが、最後の大事な項目としてあるわけですが、これが該当するのです。
8節をご覧になりますと、イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」とあります。
床をそのまま置きっぱなしにするのではなく、持って家に帰る。
「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」…。
“これは労働であって、律法違反だ”と、こういうことです。
大体こういう決まりというものは、最初の精神が失われてしまいますと、だんだんに大変おかしなものになってしまいます。

最初の初心を忘れると、私たちはいつの間にか何処かへ行ってしまう。信仰においてしかりです。
初心を忘れてしまったユダヤ人たちは、安息日問題というのは日常的であるだけに、一番問題であったのです。
だから、この9節の後半に、「その日は安息日であった」、一番分かりやすいわけです。
とわざわざ説明書きを入れているのです。
そして18節に、

イエスはいったいどういう理由で十字架につけられるような動機をつくったか、という説明をしています。
主イエスが安息日を破ったということが、 “十字架につける”というようにとユダヤ人の指導者たち、ユダヤ教徒たちを駆り立てた。
「安息日違反」の前には、弟子たちですらイエスの十字架を受け入れざるを得なかったのです。
イエスに治された、イエスから好意を受けた人たちはどうしたんだろうか。
あの群衆たちは、イエスから教えを受けた多数の民衆たちは何処へ行ってしまったのだろうか。
たぶん、そうした人たちは、こころの中ではイエスに対して好意を持っていたでしょう。
しかし、やっぱり最後に行き着くところは、“安息日を破った人間をどうしても支持することはできない”という点に突き当たったのではないでしょうか。
宗教的な理由、信仰的な理由からすればそうだろうと思うのです。

ですから、安息日を破るということは、法規を破る交通違反のように、ちょっとお巡りさんに見つかって点数を云々ということとは違うわけです。
ここで18節、「イエスが安息日を破られた」というのは、破壊されたというばかりではなく、まったく空しいものにしてしまった、不要なものにしてしまったという意味です。
イエスがやってきたおかげで、この安息日というものは、まったく取るに足らない、問題にならないようなものに、無にされてしまった。
ですから、これは決定的なユダヤ人にとりましては、信仰生活の根源を脅かされることになるものです。
ですから、このことについて徹底的にイエスを批判するだけじゃなくて、“これは生かしておいてはいけない。
ユダヤ教徒の生命に関わることだ”と思ったに違いないわけです。

日本には、融通無碍(ゆうずうむげ)、という言葉があります。
これは仏教から来ているのですが、嘘も方便、に通じます。
合理的で融通の利く考え方です。
比較すると、ユダヤ人は融通が利かない。と言えるでしょう。

この安息日の本来の精神、ここにおいて休むということは、人間的に休息を取るということとともに、精神の休息、あるいは発想の転換というものがそこにあるわけです。
身体だけ休んでいてもこころが休まなければ、その休むことによって疲れるということもあるのだと思います。
お正月疲れなどとよく申します。
休みの日に昼まで寝ていると、かえってブルーマンデーになってしまうと何かに書いてあったのを読んだことがあります。
私たちに必要なことは、何にもしないことじゃなくて、“この日を神様にために捧げて働く”ということ、我々がこのように礼拝を守るということ自体も、これは戒めじゃないですね。
戒めじゃなくて、これは“この日を神様に捧げることによって、新しい一週間を始めよう”という、これは我々の決意の表明なのです。

ユダヤ教の一つの問題点は、この安息日は聖なる日、他は俗なる日だと分離した点にあるわけです。
セブンスデーも同じことです。
聖と俗との分離というものは、これは決して成功しないのです。
ここは聖なる地域で、ここは俗なる地域である。
そのようにはっきりと分けることができないのです。
聖なる場所と俗なる場所というのは、人間が勝手にこしらえたものとしてあったとしても、本質的にそういうものはないのです。
むしろ、私たちは、“この俗なるものの中において、聖なるものを生きていく”ということが大事なのです。
私は、信仰者の生き方というものは、そのようなものだと思うのです。
キリストもその我々のために十字架に架かり、我々の罪をお救いくださりました。
その働きがあればこそ、私たちはキリストのために喜んで働くことができます。
そして、そのキリストのために、我々は新しい様々な問題に対処できるのです。
“単なる働き蜂としてではなく、神様の民として働くことができる”、ということなんじゃないでしょうか。
ですからここで、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」、とイエス様がおっしゃったために、私たちもまた、働くべき務めを与えられるのです。
キリストを信じると、我々は隣人が見えて来ます。

“隣人とは誰か”、主イエスにユダヤ人はこう言いました。
隣人とは誰か、質問をしたその人には隣人は見えないのです。
しかし、キリストを信じる時、我々は、隣人とは誰かなどと言っていられません。
“この人こそ私の隣人だ”ということがはっきり示されてきます。
はっきりしないというのは、これはイエス・キリストがはっきり見えていないという証拠なのです。
私たちはどうかご一緒に、今年も我々はキリストと共に、そしてまた神様のために、神様と共に働くものでありたいと思うのです。
それは、十字架とあがないを抜きにしてはないということです。
そこが出発点です、そして結論です。
私たちは、この社会のまことに目まぐるしい俗なる社会の中にあって、このキリストの聖なる、これは神様のあがないです。
神様がすべてを導いていらっしゃるという確信を持って生きるということが、つまり聖ということなのです。

神様を第一として生きるとき、それらのことがすべて見えてきます。
私たちが何をすべきなのか、神様が何を求めておられるのか、
使命を与えられるということが、聖ということなのです。
ご一緒にそういう聖を生きていきたいと思います。お祈りいたします。

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