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zoom RSS 主の呼びかけに応える ヨハネ5:1-18 2009/4/26

<<   作成日時 : 2009/04/26 12:56   >>

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レント、イースターにふさわしい箇所を取り上げましたのでしばらく離れておりましたが、本日はヨハネ福音書第5章です。
すこし復習しながら見てまいりたいと思います。



今まで、主イエスのしるし、奇跡の物語が二度ほど出て参りました。
第一回目は、2章の初めにありますガリラヤのカナの結婚式での奇跡でした。
第二回目は、4章の最後、やはりガリラヤのカファルナウムでの奇跡でした。
福音書記者ヨハネはたとえ話も、教えもですが、奇跡物語をそんなに多くは福音書に記していません。
それは、自分が本当に伝えたい記事を選りすぐって記しているといえます。

4章54節に、「これは、主イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」と記されています。
ですから、さしずめ今日の箇所はエルサレムでの第三のしるし、奇跡の物語と考えて宜しいと思います。
一、二と書いて、三、四が無いということですが、別に無いのではなく、後はそのようにして数えて欲しいという意図なのだろうと思います。

聖書を読むときに、聖書全体から解釈するということが大切だと思います。
ですから、今日取り上げますベトザタの辺での出来事も、5章全体からこの箇所を見るべきです。
もう一つ聖書を読む上で大切なことは、この聖書の箇所から何を私たちに語りか
けているかに注目すべきです。
ヨハネ5章全体から私たちに語られているのは、神の憐れみであり、永遠のいのちであり、罪の赦しです。
霊の目が開かれますと、これらのことが分かってくるのです。

「その後、ユダヤ人の祭りがあって」とあります。
普通は、どんな祭りかをきちんと書いてあるのですが、福音書記者ヨハネにはそんなことに興味を示しません。
それは、主イエスがユダヤの習慣に従ってエルサレムに上ってきてはいますが、主イエスご自身は祭りに興味がなかったのではないかと考えているようです。

エルサレムの東北隅に、羊や羊飼いが多く出入りしていた羊の門と呼ばれる門がありました。 
その門の外にベトザタの池という名の人工の池がありました。
「ベトザタ」という意味は、「オリーヴの家」ということですが、アラム語での意味は「憐れみの家・いつくしみの家」という意味だそうです。
「池」なのに「家」これ如何に。

羊飼いはこの池で神殿にささげるための生贄の羊を洗ったのだそうです。
羊たちはこの池で清められ、人間の罪を背負わされて殺されていったのです。

この池は北と南の二つの池があり、その周りに五つの屋根のついた回廊がありました。
回廊ですから、池を取り囲んだ屋根がある廊下です。
そこでこのベトザタの池の辺には、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」(3節)のです。
ここは一種の病院であったわけです。
病院だから「いつくしみの家」と呼ばれていたのは不思議ではないと思います。

聖書のベトザタの池の説明を見ますと、この池は間欠泉のようなもので時々水が吹き出していたそうです。
これは天使が降りてきて水を動かしたのであり、その時一番始めに池に入った者が、神の憐れみによってどんな病気をも癒されると信じられていました。
ですから、彼らは皆、水の動く機会を窺っていたのです。

これは、迷信ですけれど、目に見えない天使がこの池で舞い上がるときに水が動きます。
いままで天使が浸かっていた水に一番に入ればご利益に与れる。
そう考えられていたようです。

その中に、三十八年間も病気で苦しんでいる人のことが書かれています。
38年というのは、「生まれつき」以外では聖書の中で書かれている病人の中では一番長い期間だそうです。
彼の唯一の希望は池の水が動くことでした。
そしてその動いた水に一番にその中に入って、病が癒されるという迷信が唯一の希望だったのです。
しかし、残念ながら彼にはその時に水に入る術がありませんでした。
希望があっても行うことが出来ないのです。
この状況が、どれほど彼の性格を蝕んでいたことでしょうか。


先週、使徒言行録の足の不自由な人の箇所を学びました。
現象としては同じ、歩けない人が癒され歩けるようになった、という似たような話ですが、その人の背景が違います。
むしろ、マルコ2章に登場する4人の友人に屋根からつりおろされる中風の男に似ていると思います。

両方とも、主イエスは同じように「起きて歩く」ように促されます。
そしてこの癒しが、安息日の癒しとしてファリサイ派の人たちとの論争に発展します。
数多くいる病人の中から、あえてこのもっとも医者を必要としているこれらの男を選んで癒したように見えます。
マルコでは、主イエスが超自然的な力で中風の男を癒したことは、主イエスが神として罪を赦すという権能を持っていることを強調しています。
しかし、このヨハネでは、この男の罪についてはあまり強調されていません。
14節で注意を促しているだけです。


私たちは自分の内面を見る時に、満たされていない心の部分を発見します。
その部分を満たそうとして、色々なことを試みます。
そして、やがてその行いでは自分が満たされないことには気づきます。
時として、その行いが自分を破滅に向かわしていることにも気づきます。
でも、やめることができないのです。
「こんなことじゃ駄目だ」とわかっていても、抜け出すことの出来ない悪習慣。
私たちはそのようなものを持っているものです。
信仰を持つものにとっては、「祈り」や、「聖書を学ぶ」こと等に対して、「するべきだ」という思いがあっても、つい別のことに時間を費やしてしまい、出来ない、ということかも知れません。
この、自分が望むことをせず、かえって憎んでいることを行ってしまうことを、聖書は「罪」と呼んでいるのです。
そんな人のところに主は来てくださるのです。

この人に主イエスは声をかけられたのです。
「よくなりたいか」(6節))。
これは主イエスによる重大な問いかけです。
イエスさまであれば、当然その答えはわかっていたでしょう。
でも、あえてこの男性に尋ねたのです。
この男性は38 年間も寝たきりだったのです。
今更よくなってどうなるというのか、
元気に働けるようになってどうにかなるのでしょうか?
これから職を探し、住む所を探し、社会的な責任も負っていくのは結構しんどいことだと思います。
良くなりたい。
でも、今の状態でもこれまで生きてきたし、楽できると言えば楽が出来る状態でもあるのです。
私たちも同じでしょう。
少しでも「良くなりたい」という希望は持つ。
でも、じゃぁ良くなるために努力をするか、というとその努力はできるだけしたくない。
また、良くなった時に新しい責任を負い、自分が忙しくなる、大変になる、とわかると「良くなる」ということに対してしり込みしてしまいます。

例えば、「神さまからたくさんの恵みを受けたいですか?」と質問されたとします。
みなさんは、「そりゃもらえるものは欲しいさ」とこたえるでしょう。
「では、本当に恵みを受けたいのですね?」と聞かれると考えてしまいます。
「確かに恵みはどれだけでも欲しいけど、恵みをたくさん受けた人は教会で奉仕している。私には奉仕する時間は無いし、感謝だからと言って沢山献金するほど余裕も無い。今まででもそれなりにやって来れたんだし、今更これ以上の恵みを頂くと、その後が大変そうだ」となどと思ってしまうかもしれません。

実はこのような考えかたが罪に縛られた考え方なのです。
確かに、神さまから恵みを受けたら、それに応える必要があります。
そして応えている状況を「今の自分」から考えたら、ちょっと大変そうに見えるかも知れません。
しかし、本来逃れることのできない罪から解放されて、その「大変そうに見える状況」の向こう側にあるものは何でしょうか?


私は富士見小学校という小学校を卒業しました。
栃木県の宇都宮です。
宇都宮は東京から100kmも北にある市ですが、かつて、そこからも富士山が見えたのだそうです。
今でも、天気のいい日にJRを超える跨線橋の上からは見ることができます。
若い人はそこから富士山が見えることを知らないかもしれません。
同じように都内にも富士見坂という名の坂がたくさんあります。
しかし、その多くからは現在は富士山を見ることができません。
遠くから見ると、その場所も、富士山の全景もよく見えます。
しかし、
あれだけでかいから、見失わない、と思っていても見失うのです。
今まで大きくない、さほど大きくはない家や木々が自分の前に立ちふさがり、その向こうに山があるのにそれを見えなくしてしまうのです。
人は非常に小さな目から、大きな世界を見ようとするのです。
ですから、どんなに大きなものを見ようとしても、目の前に小さな「物」を置かれるだけで、その後ろにある大きなものは見えなくなってしまいます。
このことを聖書的に言えば、小さな罪に縛られていることで、その後ろにある大きな恵みの世界、喜びと希望に満ち溢れた世界が見えなくなってしまうのです。

もうすこし勉強すれば、いい学校に入れる、もう少し努力すれば、いい結果が得られる、と子供のころから言われ続けてきたことも同じかもしれません。


主イエスの前で「歩けるようになる」ことだけを望むのは、神を過小評価しているといえます。
そして次のように答えています。
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(7節)。
リビングバイブルでは、「もうあきらめてますよ」と書かれています。
なかばあきらめて希望を失ったこの人に主イエスは語られるのです。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8節)と。
普通なら多少は慰める言葉をかけたり、励ましたりするものです。
ところが主は、非情かつ非常識な命令をしたのです。
「どういうこと。お金も食べ物もなんの施しもない。池に入る手助けしてくれるわけでもない。いきなり床を担げだと?それが出来りゃ、ハナからこんなとこいないよ」とか。
非常識な命令を受けた男は、最初そう思ったかも知れませんね。
しかし、彼は言われた通り、その言葉を実行したのです。

私たちは自分の経験や知識によって神さまの働きを制限してしまい、神さまの無限の力を発揮させないような環境を作ってしまうのです。
神さまを人間の知識の中に閉じ込める、ということです。
そうなると、聖書から導かれた言葉や、神さまの命令には当然従うことが出来なくなります。
示されたことでも、まず自分の経験や知識、常識に照らし合わせて、従う価値があるなかないかを自分の頭で判断するのです。
目の前にあるものにさえぎられて、真実を見ることができないのです。
それで、疑いながら、最終的にようやく、命令に従ったか従わなかったか、かろうじて従ったかなぁ、という程度の行動をします。
そして「神さまの御業はこんなものだ」と思い、満足するのです。

では、ここでいう、床とは何でしょう。
そこは彼の生涯であり、生活のすべてであったのです。
床を取り上げて歩むとは、今までの生き方を止めて、新しい生き方をするように言われているのです。
今までの生き方を引きずって生きてはならない。
神の憐れみの中にあって生きるようにと主イエスは言われたのです。

「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」(9節)のです。

病気が治ったその人は神様に感謝するために、その後、神殿に入りました。
そして、そこで主イエスはその人にお会いになり、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」とおっしゃいました。
聖書によりますと、すべての苦しみは罪の結果です。
だとすると、主イエスが、おっしゃった言葉の中の「もっと悪いこと」というのは、病気とか肉体的な苦しみではなく、罪を犯すことによって永遠の生命を失う、ということを意味していたのです。


主イエスは今も私たちに、「よくなりたいか」と問いかけておられます。
神さまは私たちのことを本当に愛しておられます。
だから、私たちのことはよくわかっておられます。
その私たちに出来ないことを、神さまが命令することはまずありません。
私たちのために独り子の命さえも投げ出すお方です。
出来そうもない、と思えることを命令されるならば、本当に大きな奇跡を神さまが用意して下さっている、ということですよ。

たとえ絶望的な状況の中にあっても、信仰により、希望をもって応答していきましょう。
神の憐れみは、必ず神の大いなるみわざを見ることができます。
それは死人が生かされるという驚くべきみわざです

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