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zoom RSS ここにはおられません  イースター早天礼拝 2009/4/12 マタイ28:1-9

<<   作成日時 : 2009/04/20 07:51   >>

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イースター、おめでとうございます。

今回聖書を読んでいましたら、一つ発見をいたしました。
何度も読んだことのある箇所です。
今日、私たちはイエス・キリストが復活したことを覚えて、一緒にお祝いをするのですが、今回気がついたことがあります。
今日の聖書の箇所、マタイ28章6節の言葉は、正しく訳されていません。
それは、キリストがよみがえった、として使われている復活したという言葉についてです。
正確に言いますと、イエス・キリストは復活したのではなく、復活させられた、よみがえらされたと訳すべきなのであります。
それは使われている言葉が受身の形なので、復活させられたのだ、あるいはよみがえらされたのだ、と訳されなければならないからです。
そのことを思ったときに、復活は、神の出来事、神の行為だということがわかりました。

先日の木曜日、洗足の木曜日に高根姉妹のお母様、高根はる姉が洗礼を受けられたときもそうでした。
あとで、詳しくお話いたしますが、伝道の書を思い出さずにはいられない、神の時を体感したのです。

復活の朝、イエス・キリストは御自分の力でよみがえってこられたのではありませんでした。
先週の礼拝や受難日礼拝で見ましたように、十字架上のイエス・キリストはまったく無力でした。
弱さと敗北の象徴。それが十字架でした。
しかし、その弱さと敗北は、私たち人間がその苦しみや痛み、神からも見放されてしまったという思いを担わなくてもよいように、神御自身が負ってくださった痛みであり、苦しみでありました。


それでは聖書はこのことをどのように証言しているでしょうか。
復活の証言は、福音書によって少しずつ違いますが、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に共通することは、マグダラのマリアたちが主イエスの墓へ行ったところ、主イエスの体はそこにはなかったという証言です。
今日お読みいただいたマルコによる福音書16章によれば、「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と、「ここにはおられない」、つまり、主イエスは、悲しみのしるしである墓にはおられないという知らせが告げられたのでした。
マタイによる福音書にもほぼ同じ証言が書かれています。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。」
このように、主イエス・キリストの復活の証言のもっとも古いもの、それは、女性たちが墓に行ったところ、主イエスはそこにおられず、墓が空であったということです。
墓が空である。
それはひとことで言って、死が空しくされた出来事です。
マリアたちは墓に行って、死んだイエスの体に会おうとしました。
しかし死は空しくされていた。
もはやここにはおられないと、天使は告げたのです。
わたしたちがその目を、その心を向けるべきものは、墓のなかではなく、別のところにあるのです。

三浦綾子さんは晩年「わたしにはまだ死ぬという大切な仕事がある。」このように言いました。
亡くなられたのは1999年でした。
夫、三浦光世さんの本、「死ぬという大切な仕事」によれば、亡くなられる4、5年前、声も低くなり、口述も困難になったころから、「わたしにはまだ死ぬという大切な仕事がある」と言われるようになったそうです。
癌と、パーキンソンという、重い病をいくつも抱えていながら、実に静かに耐え、驚異に値する忍耐力であったと、夫の光世さんは書いておられます。
それは、死を恐れるのではなく、また避けようとするのでもなく、あるいはまた、言うまでもないことですが、命を粗末にすることではなく、また諦観というようなあきらめでもなく、課せられた大切なことがらとして、誠実にそれを果たそうとされたのでした。
光世さんは次のように書いておられます。
「綾子はそれほど大きな仕事をしたとは思わないが、幾度もの病苦を忍び抜いて、読んでくださる人の幸せをひたすら祈りつつ、著作を続けたことは事実である。その祈りが今後も聞かれて、多くの人の人生に役立ってほしいと、私もまた祈らずにいられない。」
このような言葉を読むと、死ぬという大切な仕事をとおして、三浦さんはわたしたちに多くのものを与え、また何かを生み出してくださったのだと思います。
この三浦綾子さんをこのように生かしめたのは、主イエスの生き様であり、死に様でした。

何度も読みますが、今日の聖書の箇所、28章の5節以下の箇所で、天使は婦人たちに向かってこう言います。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない」。
婦人たちは確かに、十字架につけられたイエスを捜していました。
それは、弱さと敗北の中で、力なく死んでいったイエスでした。
重い石で入口をふさがれ、暗い墓の中に葬られたイエスでした。

重い石で閉ざされた墓の中には、もう二度と光が差し込むことはない。
すべての希望が失われたところ。
その墓の中に、婦人たちは十字架につけられ、死んで葬られたイエスを捜したのです。
そんな婦人たちに天使はこう言いました。
「あの方は、ここにおられない」。
十字架につけられたイエスは、ここにおられない。
あの弱さと敗北の中で死んで葬られたイエスは、もうおられない。
すべての終わりであり、葬りの場所である墓の中に、あの方はおられない。
空っぽの墓は女性たちには失望と不安を与えました。
では、おられないのなら、どこにおられるのか。

イエス・キリストは弱さと敗北の代わりに、勝利と栄光をいただいてよみがえらされたのです。
よみがえらされたイエス・キリストは、死者を葬る墓の中にはおられないのです。
つまり、生きている者たちのもとにおられるということです。
これが復活の出来事でした。

さて、今日の聖書の箇所の後半を見てみますと、そこにまた、不思議な記事が出てきます。
イエス・キリストの復活はうそであった。
あれは弟子たちが盗んだのだ。
そう言いふらすようにと祭司長たち、長老たちが画策する話が出てきます。
そしてマタイ福音書はこう語るのです。
15節の後半ですが、「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」。今日に至るまで、とは執筆者のマタイが福音書を書いている今に至るまで、ということであります。
マタイ福音書は紀元70年のエルサレム崩壊以降に書かれたであろうと想定されています。
イエス・キリストの十字架と復活の後、50年ほど経った時代であります。
エルサレム崩壊前後は、ローマ皇帝によるキリスト教迫害の最も激しかった時代です。
クリスチャンが捕まえられて、見せしめのために野獣に噛み殺される。
ローマ人がそれを見物する。
そんな時代でした。
その時代に、イエス・キリストの遺体は、弟子たちによって盗まれたのだ、という話がユダヤ人の間に広まっていったのはわかるような気がします。
エルサレム崩壊はユダヤ人にとってもたいへんな出来事でしたので、ユダヤ人からすれば、自分たちは迫害されているキリスト教とは違うのだ、ということをはっきりと示しておかなければなりませんでした。
キリスト教は弟子たちが勝手に復活を装ったうその宗教なのだ。
ユダヤ人はそう言いたかったわけです。
そんな時代に、マタイ福音書が書かれました。
この福音書の存在そのものですら危ない時代でした。
キリスト者は迫害を受け、ユダヤ人は、復活はうそだと言い張りました。
しかし、それでも弟子たちは、キリスト教を捨てませんでした。
迫害にあっても、復活はうそだと言い広められても、それでも弟子たちは、命をかけてキリスト教を広めたのです。
この弟子たちは、イエス・キリストの裁判の場所にも、また十字架の処刑場にも行くことができませんでした。
ただ一人、裁判所の庭に様子を見に行ったペトロも、そこにいた人たちからイエスの仲間だと言われ、「そんな人は知らない」と3度も否定しました。
このように弱々しく力の無かった弟子たちが、ローマによる迫害にも負けず、ユダヤ人の妨害にも負けなかった。
なぜでしょうか。それは、よみがえらされたイエス・キリストと出会ったからでした。
よみがえらされたイエス・キリストと出会うことによって、彼ら自身、よみがえらされたからでした。
力無く、弱々しく、ローマ兵やユダヤ人を恐れながら隠れていた彼らは、十字架につけられ、死んで葬られたイエスそのものでした。
何の力も無く、弱々しく、敗北の内に死んで、真っ暗な墓の中に葬られ、重い石で入口をふさがれてしまったイエスそのものでした。しかし、重い墓の石は神の手によって取り除けられました。墓は開かれ、暗闇の中に光が差し込んだのです。その希望の光の中で、天使はこう言いました。
「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われたとおり、復活させられたのだ」。
もうすでに墓の外におられたイエス・キリストを追うようして、弟子たちも開かれた墓の外へと出かけて行きました。
弟子たちもよみがえらされたのです。
ウイリアム・バークレーは、「復活の信仰は、イースターの時だけではない。クリスチャンがそれにより毎日生き、最後に死ぬ信仰なのだ。」と言っております。
これがイースター。イエス・キリストの復活の出来事であります

私たちは日々新しく生まれる喜びのうちに、信仰生活を歩んでまいりましょう。



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