日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 復活の主と共に  2009/04/19  使徒3:11-26

<<   作成日時 : 2009/04/20 07:28   >>

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初代教会のキリスト信者たちは、毎日エルサレムの神殿で祈りと礼拝の時を持っていました。
神殿に入る正面の門が、今日の聖書箇所の舞台となる「美しい門」だと言われています。
少し前から見ていきます。
ペトロとヨハネは、いつものように、その門を通って神殿に向かおうとしていました。
彼は生まれつき歩けない人が運ばれて来ました。
彼は長年の間、毎日他の人に運んできてもらって施しを受ける生活をしてきたのです。
何十年もすれば慣れきて平気になってしまっていたかもしれませんが、その心には、自分のしていることの虚しさや、神に対する恨みや人に対する不満もあったことでしょう。
そんな彼の前をペトロとヨハネが通りかかりました。
彼は、二人に施しを求めました。
二人は、この男をじっと見つめました。
イエス様が、病気の人をいやされた時の弟子たちは、彼らを邪魔者扱いしていたと福音書にはあります。
しかし、ここでペトロは、イエス様のように、彼を見つめています。
復活の主に会い、聖霊を受けることによって、ものの見方、感じ方が変えられたのです。
ペトロは彼を見つめていると、「彼を起き上がらせなさい。」という聖霊の内なる声を聞いたか、あるいは、促しを受けました。
そして、ペトロに「私たちを見なさい。」と言わしめるのです。
その人は、何かもらえると思って、ふたりに目を注ぎました。
彼が求めたのは、その日一日をしのげるだけの小銭でした。
しかし、神様が与えようとしたものは、もっと大きなものでした。ペトロは言いました。「私には金銀はない。」
この「金銀はない」という言葉を聞いたとき、物乞いの男はがっかりしたことでしょう。
でも、その後に続くペトロの言葉で、彼の人生が全く変えられるのです。
ペトロは言いました。
「持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そんなこと急に言われて、彼はびっくりしたことでしょう。
「そんなことできるわけがないだろう!ばかにしているのか」と言いたくなるのが普通の反応でしょう。
もし立ち上がろうとして歩けなかったら大恥をかいて、絶望の底にたたき落とされるのです。
しかし、イエス様が救い主で、多くの人をお癒しになった噂も聞いていた彼の心の中には、イエス様を信じる備えができていたようです。
それで聖霊は、ペトロに、彼を見つめさせたのです。
右手を握られたとき、生まれつき歩けなかった彼は、体の中に、今まで経験したことのない力が沸いてくるのを感じたことでしょう。
そして7、8節…彼の体は、完全に癒されたのです。
神様は彼に、物乞いをして得られる小銭ではなく、働いて生活していける身体を与えました。
しかし、重要なことは、これが単なるいやしの奇跡で終っていないことです。
表面的な出来事に目を奪われがちですが、彼は神を心から賛美し、心から礼拝するものとなったということが大事なのです。
つまり、彼の足が癒されたことと、霊的に救われてクリスチャンの仲間入りをしたことが別々のことではなく、ひとつの「救い」として扱われているのです。
身体を癒しただけでなく、その心も変えられました。
人々がびっくりするほどに変えられたのです。
私たちが主イエスを信じる時、神様は私たちを造り変えて下さるのです。
神様が与えて下さるのは、いつも私たちの期待以上のものです。
神様はいつも、私たちよりもはるか先をご覧になった上で、私たちに最も必要なものを与えて下さる方です。
ですから、祈った通りに答えられなかったからと言ってがっかりしないで下さい。神様はもっと良いものをあなたに与えようとしていらっしゃるのです。
ペトロは、「イエス・キリストの名」によって歩きなさいと言いました。
使徒たちが不思議と奇蹟を行なっていたのではなく、イエス様の御名の力によって奇跡を行っていたのです。
つまり、イエス様が聖霊によって続けてご自分の働きをされていたのです。
イエス・キリストの名には、力があります。
それはキリストの霊・聖霊の力です。
キリストの名が持っている力はなんと素晴らしいことでしょう。
キリストの名によって、私たちは、自分が求めるものよりさらに素晴らしいものを受けることができるのです。

その出来事は、人々の間に大変な反響を呼びました。
その人が全く別人のように踊ったり、賛美したりしていたものですから、驚いた人々がどんどん集まって来たのです。
11-12…「民衆は彼らの方へ、一斉に集まって来た。」と書かれています。
ペトロは、集まって来た、ユダヤ人たちに説教をしました。
そして、「私たちの力とか、信心深さによって、この人を歩かせたのではない!」ときっぱりと言っています。
多くの人は神をあがめるのではなく、神が用いた人をあがめてしまう傾向があります。
しかし、このペトロのようにきっぱりと、「私たちのわざではない!」と言うべきなのです。
ここにすべての栄光を神様にお返ししようとするペトロの姿があります。
そして、13-15節でペトロは単刀直入に、「あなたたちは、人を殺したのだ。」と言っています。
しかも、聖なる方、正しい方を殺し、いのちの君なる救い主を殺したのです。
三位一体の御子、つまり、人となられた神様を殺しました。
人となられたために一時的に殺す事が出来たといっても良いかもしれません。 しかし、父なる神を殺す事は出来ません。この父なる神がイエスキリストを死者の中からよみがえらせたのです。
 
例え全人類が有罪だとしても、神が掲げられたキリストは、神の手によってい嫌えらされるのです。
そのことは主の弟子たちに明らかにされました。
そして、最終的には終わりの日に全人類に完全に明らかにされます。
「私たちはそのことの証人です。」
人間がどんなに悪事を働いて、どんなに神とキリストを排除しようとしても、決して主のご計画を破壊することはできません。
イエスは、圧倒的な勝利を収められました。
よみがえられました。
そして今も生きておられ、私たちを導き、支え、恵みをくださるのです。

16節…ここが大事です。あの男を立たせたのは、ペトロの信心深さによるものではなく、イエス様の御名の力が、信じたあの男の信仰によって働いたのです。神がイエスを死者の中からよみがえらせたその力が、イエス・キリストを信じる者に注がれるのです。
クリスチャンの多くが、信仰を信仰深さと混同しています。
聖書が語る信仰とは、イエス・キリストを知ることです。
イエスがどのようなお方で、どのようなことを行なわれたのかを正確に知ることが、聖書の言う信仰には不可欠なのです。
そしてまた、そのイエス様を信じる信仰も、人間の努力や信心深さによって測られるものではなく、イエス様ご自身が、聖霊によって与えてくださるものなのです。
ここでは「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに」と言っています。信仰というのは、人間の内側に信仰深くなるように積み上げるものではありません。
私たちが「信仰が深い」という時に、その人のうちにあるものを評価している事が多いと思います。
しかし、信仰の成長ということがあるとすればそれはその人の信仰が深くなることではなくて、その人の信じているキリストがまことのキリストとしての位置をどれだけ占めているかということなのです。
わたしたちは良く言いますね。
「私はあなたのように、あるいはあの人のように信仰深くありませんから」それはたいてい人と人を比較しているのです。しか し、それは言わばあなたが信じているイエス様より私の信じているイエス様の方が本当のイエスから遠いのですと言っているようなものです。
「御名を信じる信仰」と言うのは「信仰」の方に視点があるのではなく、「御名」の方に視点があるのです。
聖書で「御名」という場合「神ご自身」を表わしています。
実際は、ペトロが見上げていたイエス様も、イエス様も、私たちが見上げているイエス様も、同じイエス様です。
自分の眼鏡を通してではなく、本当のイエス様を見上げているかどうかが問われるのです。

ユダヤ人が、キリストなるイエスを殺したのは無知だったからです。
そのため、彼らは、このイエスがメシヤであるはずはないと思い、ご自分をメシヤであると主張するイエス様を、神への冒涜の罪を犯した者として十字架につけたのです。
無知であることはとても恐ろしいことです。
でも希望があることをペトロは伝えます。
19節…そういうわけですから、あなたがたは無知の故に犯した罪をぬぐい去っていただくために「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」とペトロは、勧めています。

私たちは、無知のゆえに罪を犯しているのです。
しかし、イエス様を信じた人の罪は、イエス様が十字架で流された血できよめられ、拭い去られるのです。
20-21節…回復の時、万物が改まる時は必ず来ます。
足なえの男の回復も、その前ぶれにしか過ぎません。
主イエス・キリストが来られるときには、全てのものが回復します。
でもその前に、まずイエス様を信じて罪がぬぐい去られ、救われた神の国の国民を生みだしておかなければならないのです。
それまでは、救い主イエス様は、天にとどまっていなければならないのです。
だから、イエス様を信じる者の罪が赦されることは、イエス様が、聖霊によって神様の国を建設する大切な準備なのです。
そしてペトロは、22-26節で、集まったユダヤ人たちに語りかけて説教をまとめます。
ユダヤ人であっても、ひとりひとり、悔い改めとイエス様への信仰によって救われるのです。クリスチャンも同じです。
イエス様の御名の力、すなわち今も生きておられるイエス・キリストご自身の力が、あの男を癒したのです。
イエス様は、今も生きておられます。
そして聖霊によって私たちを用いて、神の国の国民を生み出しておられるのです。

主イエス様は、今も、生きておられ、私たち一人一人の人生の中で私たちに出会って下さり、私たちの人生を変えて下さり、私たちの内に住んでくださるのです。私たちにとって最も大きな問題は、この大切なことを忘れてしまうことではないでしょうか。

ある時、宗教改革者マルチン・ルターがひどく落胆して、ふさぎ込んでしまいました。
いつまでも立ち上がろうとしないルターを見た時に、彼の奥さんマルガリータは喪服を着たそうです。
ルターは驚いて聞きました。「どうしたんだ、喪服なんか着て。一体誰が亡くなったんだ?」
すると奥さんは、「主がお亡くなりになったのです」と答えました。
「何を馬鹿なこと言ってるんだ」と聞くルターに、奥さんは、「主が生きておられるのなら、なぜあなたはそんなにふさぎ込んでいるんですか。」と聞いたそうです。
それを聞いて、ルターははっと我に返り、もう一度、生きておられる主に目を上げ、立ち上がることができたということです。

神様は、私たちにも、「わたしを見なさい。」と言われます。
そのような時、私たちはこの世のことや一時的なものでなく、永遠につながることに目を向け、イエス・キリストの名を信じる信仰によって、神を見上げたいと思います。

主は今も生きておられます。
生きておられるから私たちはこの方を賛美し、この方を礼拝し、この方のお名前によって祈るのです。
私たちの生きる目的は何でしょうか。
それはこの方が生きていらっしゃることを自らが経験して、それを周りの人々に伝えていくことです。
復活の主は今も生きておられます。
私たちは、その主と共に歩んでいる、このことの証人なのです。

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