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zoom RSS 十字架から降りるがいい 受難日礼拝2009/4/12  マルコ15:21-41 

<<   作成日時 : 2009/04/12 23:31   >>

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人は生まれた瞬間から死に向かって生きています。
誰一人として、死から逃れること、死を避けて通ることはできません。
主は ゲッセマネの園で捕えられたとき、《父がお与えになった杯は、飲むべきではないか》(ヨハネ18章11)と言って、ご自身を死へと引き渡すことをお許しになりました。
人間のもつ生の弱さを選び取り、十字架では《渇く》とおっしゃり、苦痛の深淵を受け取られました。
 
それは、ご自身が生きるためではなく、弟子たちに命を与えるためです。イエスさまは、愛する弟子たちに命を与えるために、死を選ばれました。《彼は自らの 苦しみの実りを見、それを知って満足する》(イザヤ53章11)。
イエスさまの望んだ実りは、弟子たちの命でした。
 
イエスさまはまた《成し遂げられた》と言って、息を引き取られました。
この瞬間、キリストは、死の意味を変え、《永遠の救いの源》(ヘブライ4章9)となりました。
生は死によって終わりますが、命は死によって終わりません。
十字架の死を備えることによって、人の生き方や隣人との関わりは、思いやりに満ちたものへと変えられるのです。

シュタウファーという歴史学者の十字架刑についての記述にこうあります。十字架の死は、最も残酷で最も恐ろしい死刑である。処刑される者が同情される場合には、脛骨が折られたり、脇を槍で突いたりして、苦痛の時を短くしてや る。そうでない場合は、不幸な処刑者は何時間も、あるいはしばしば何日間もの間、苦痛にさらされて十字架にはりつけられていなければならない。そのあげく にようやく、衰弱、窒息、鬱血、心臓破裂、虚脱、あるいは何らかのショックによって死ぬ。だがその間ずっと、十字架にかけられた者は、おのれに襲いかかる 猛獣、猛禽にまったく無力にさらされ続ける。おのれの傷口にとまる蝿や虻を避けることさえできない。要するに、十字架刑は古代の裁判制度が発明したこの上 もなく極悪非道な事柄である。       (荒井献訳『エルサレムとローマ』より)

そんな十字架につけられた主イエスを人々が頭を振りながらののしるということは預言の成就のひとつでありました。
その言葉を共に見てみましょう。
29節、30節では、「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と十字架の前を通りかかる人々は言いました。
31節では、「他人は救ったのに、自分は救えない。」と祭司長たち、律法学者たちが言いました。

主イエスは多くの人々を癒し、助け、救いました。
そのような主イエスの姿を人々は知っていたのです。
ですから、人は救っておきながら自分は、今十字架刑になって死のうとしている惨めな姿を見て、自分を救えというのです。
主イエスは自分を救うこともできました。
主イエスが捕らえられようとした時、主イエスと共にいた者が、剣を抜き大祭司の手下の片方の耳を切り落とした後、主イエスは言われました。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26:52-53)
主イエスはご自身が願いさえすれば、自分自身を救うことができました。
できるのにその権威、力を使いませんでした。
なぜ、それは私たちのためです。
そして、ご自分の使命のためです。
主イエスは先ほどの言葉に続けて、「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」と言われました。
この十字架刑から自分を救うことはできる。
しかし、そうしたら、聖書に記されてきた預言、聖書の言葉が実現しないことになる、ということです。
口々に、「十字架から降りてみろ」と言われて、主イエスはつらかったでしょう。
十字架から降りることができるのに、降りないという勇気、謙遜、愛を見ることができるように思います。
できないことを言われても苦しいです。
悔しいです。
しかし、できることなのにバカにされてもしないということはもっと悔しく、つらいことだと思うのです。
神である方が、神の全能の力を発揮すれば何でもできます。
また、父なる神様にお願いすれば救って下さる。
それなのに、神としての権利を要求したり執着したりすることがありませんでした。
へりくだった従順な姿、十字架の姿こそが神様のみ心であり、唯一の救いの道であったのです。
祭司長や律法学者たちは、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言いました。
目の前で十字架についている主イエスを見て、「十字架につけられて苦しんでいるような者は、メシア、救い主でもなく、イスラエルの王でもなく、自分たちと少しも変わらない人間である。」と判断し、十字架から降りるという結果によって信じようと言うのです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
神であるお方が私たちと同じ弱い人間の姿になられたのです。
祭司長や律法学者たちは、何かの結果次第という信仰でした。
34節では、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を聞いて、エリヤが降ろしに来るかどうか、見ていよう、という結果待ちの生き方でした。
何かが起これば、自分の望んでいることが起これば信じ、そうでなければ信じない。
助けがあれば信じ、助けがなければ信じない。
結果を見てからという生き方は、自分は少しも動こうとしない、自己中心的な信仰であるように思います。
何かを見て信じるという生き方は、信仰ではありません。
主イエスは、「見ないのに信じる人は幸いである。」と言われました。
私たちはどのような立場で十字架を見上げるでしょうか
主イエスの十字架刑をただ見ていた群衆でしょうか。
はなから、お前など救い主でもなんでもない、という立場で見ている兵隊でしょうか。
十字架から降りるかどうかを見てから判断しようとする群衆でしょうか。
自分には関係ないとさっさと逃げ出し、物陰で身を隠しているのでしょうか。
主イエスは、私たちをすべてご存知であられました。
だからこそ、すべての救いの道である十字架の苦しみを受けられたのです。


「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」という言葉は、自分が主イエスより上に立ち、バカにした言い方です。
リビングバイブルでは、「よおよお、キリスト様。イスラエルの王様。十字架から降りてみろ。そうしたら、信じてやろうじゃないか。」とあります。
自分を十字架刑にした人々のために主イエスは祈られました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」(ルカ23:34)
これは、今ご自分を侮辱する者たちのためにも祈られた祈りであると思います。
私たちは、力というもので相手を判断します。
勉強ができるということで、能力があるということで、何かをする力があるとうことで相手を認めます。
戦争の兵器の多さやその技術力でその国の力を認めるという時代です。

主イエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と言われました。
力でなんとかしようとする者は、力で滅びる。
それが主イエスの教えであり、聖書の示していることなのです。
しかし、私たちの日常生活の中でも、力で何とかやろうということが多いのではないでしょうか。
目には目、歯には歯、売られた喧嘩を買う。
ああ言われたら、こう言う。
相手を省みず、自分の権利だけを当然のごとく主張する。
主イエスの一方とは正反対の生き方が私たちの生き方ではないでしょうか。
神様の救いの方法は、力で何とかするというものではありませんでした。
神様の全能の力、圧倒的な力で、人間を制圧し、物言わせないで、信じさせる、というような方法ではありませんでした。
神様は私たち人間を罪から救うために、十字架から降りて力を見せて信じさせるという方法を取りませんでした。
人の醜さ、貪欲さ、憎しみ、嫉妬、もろもろの罪の性質を赦すために、神の子、罪のないお方、力あるお方、十字架から降りることもできるお方が私たちの身代わりに十字架にかかって死ぬという方法をとられたのです。
これ以外に、私たちの救いはあり得ないのです。
十字架こそ、救いの道、神様の愛の現われなのです。
弱く見える十字架こそ、罪を赦すための力強い神様のみ業なのです。
私たちは、この主イエスの謙遜を見習いたちと思います。
確かに相手が悪い。そして、相手に文句も言いたい。
言う権利もある。しかし、その権利を固執しない生き方。
相手をそのままで受け入れる主イエスの生き方を始めたいと思うのです。
私たちは主イエスが自分自身をどこまでも受け入れ、愛して下さったように、隣人をどこまでも愛し、受け入れていく生き方を始めたいと思うのです。

神様であり、罪の全くないお方イエス・キリスト様は、私たち一人ひとりの罪のために十字架にかかって死んで下さいました。
本来ならば、天において天使に仕えられておられるはずのお方が、私たちを罪から救うために、人となりこの地上に来て下さいました。
そして、私たちと同じ肉体を持つ、人としての歩み、特に僕としての生涯、十字架の死に至るまで従順な歩みをされました。人のために
その権威と力をお使いになられましたが、ご自分のためには何一つお使いにはなりませんでした。
「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と叫ぶ、祭司長や律法学者たち、民衆のために、今目の前で彼らの罪のために十字架にかかっているのに、主イエスを侮辱しました。
十字架から降りることもできたのに、全能の力をもってローマ兵をやっつけることができたのに、それを使いませんでした。
ただ静かに、十字架におつきになったのです。
それが、神様のみ心だったからです。
私たちは、この主イエスの姿勢に学びたいと思います。
私たちは、それぞれの持ち場立場で、会社、地域、家庭の中で力や権威、権利というものがあります。
上司として、ある役職を持つ者として、部下に対して、何かの長として、そこに集う人々に対して、父親、母親として子どもに対して、当然要求できる力や権威、権利というものを持っています。
しかし、それが、人間の自己中心の上に、その権利や権威以上のものとなって、従う人やそこにいる人々を苦しめたり、痛めたりすることがあるのです。
そのような中で、私たちはその力と権威を持っているにもかかわらず、使えるにもかかわらず、要求することなく、固執することなく、ただ神様のみ心に従われた主イエスの姿勢に学びたいと思います。
それは、愛から始まります。
主イエスの十字架は神様の愛の表れです。
いつも十字架に目を留めて歩ませていただきたいと思います。
十字架こそが、私の救い、恵みの源なのです。
主イエスの十字架の死、それは悲しい出来事でした。
しかし、その死の向こうには復活の恵み、喜びがあるのです。
主の受難を覚えて歩ませていただきましょう。

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