日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神の愛を受け取ること 2009/3/29 ヨハネ12:36b-50

<<   作成日時 : 2009/03/29 13:24   >>

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2008年度最後の日曜日となりました。
思い起こせば私が成田教会に遣わされて丸1年となりました。
1年間お世話になりました。改めましてよろしくお願いいたします。

本日の箇所は、主イエスがご自分の民であるユダヤの民に公で語った最後の言葉とされています。

聖書の中には意味の分かりにくい箇所があります。
今日のところなどもそうではないでしょうか。
「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」という、何を意味するのでしょうか。
駆け出しの牧師にとって、こういうみ言葉を説くのは難しいものです。
皆さんも、このような箇所を通読していても「ハイハイ」と読み流してしまうことが多いのではないでしょうか。
表面上の意味はなんとなくわかるのですが、なぜ主がこのようなことをおっしゃったのか、なぜ語らねばならなかったのかなどを考えると難しくなります。

ここで「裁く」と訳されている言葉は、「判断する」と言う意味も持つ言葉です。
本日は千葉県知事選挙です。みなさんはもう選挙にいかれたでしょうか。
正しい判断をし、尊い1票を用いましょう。
さて、「裁き」などというと法廷で行われているような厳しい、冷たいイメージがあります。
しかし「判断」するとなるとわれわれがしょっちゅうしていることです。
何が良くて何が悪いか、生活の中で、考えさせられることが多い。
善悪の判断の基準は十戒です。
ここでは人に対して裁くなというのである。
わたしたちは常に判断し、判断されています。
私は人材ビジネスにおいて何千人も面接しましたから、そういった意味では自分のことは棚に上げて裁きまくっていたといえます。
私たちは、学校の成績、入学試験、それによる学歴、職業など。
人を判断せずに生きていくことなどできません。

聖書の言葉の意味がよく分らない時のこつは、まず、その部分だけを見ないで、前後を読んでみるということです。
つまりその言葉が語られた状況を掴むことです。
時代的な背景を知るのも役に立ちます。
それから、もう一つ大切なことは、聖書全体が伝えようとしている観点から事柄を判断することです。
別の訳の聖書を読んでみる、というのもひとつです。
人間の世の中も矛盾だらけですから、聖書の中に矛盾があってもしかりなのですが、神様が私たちに語られていることは一貫しているはずです。
それは、言葉を受け取る側の状況や、受け取った相手が違うということです。

先程お話しした二つの点から考えてみましょう。
先ず1つめは大きな背景です。
ヨハネ福音書は、ヨハネ共同体と呼ばれた教団の新とに向けられかかれたものです。
当時ユダヤ社会から厳しい敵対関係、孤立した状況の中におかれていました。
ヨハネ教団では、脱落者が出る教会防衛のため、イエスを信じないユダヤ人たちは、闇、サタン、悪として敵対していました。
そこに妥協は許されなかったのです。

次に 聖書の語ろうとする大きなテーマです。
それは言うまでもなく、十字架による罪の赦し、贖いの愛であり、それに続くイエス様の復活によって保障される死者の甦りと永遠の生命です。
その観点から見ても先の「完全な者になれ」との命令が、単純な言葉通りの命令ではないことが分かります。

そこで今日のテキスト、ヨハネ福音書12章の「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」というところですが、同じように二つの観点から考えてみましょう。
このヨハネ福音書の12章ではラザロの復活の話の後、エルサレム入城が描かれています。
この数日後の受難の伏線となる民衆の誤解、無理解が描かれており、その受難の予告と人々の不信仰が語られています。
そんな中で語られたイエス様の言葉です。
人々の無理解、不信仰との関連で解釈されるべきでしょう。
そして、
A聖書の語ろうとする大きなテーマは言うまでもなく、目の前に迫って来ている十字架による神の赦しの愛であります。
それを通して与えられ、イエス様自身の甦りによって保障される死者の復活、永遠の生命です。
ですからイエス様の言われる「わたしの言葉」というのは明らかに赦しの愛の言葉のはずです。
12章47節後半に「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」と、はっきり言っておられるのです。
それなのに「私の言葉が裁く」というのはどういうことでしょうか。
ここがわかりにくい点なのですが、49節を読んで見ると、「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになった」とあります。
ですから、「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」というのは、他ならぬ神様ご自身のお言葉が裁くのだということになります。
神の言葉すなわち赦しの愛の言葉です。
神の愛が人を裁くとはどういうことでしょうか?


愛は一方が強制的に受け入れさせることのできるものではありません。
例えば自分で食事をとることのできない病人がいるとしましょう。
命を維持するために輸液、いわゆる点滴をします。
全く食事のできない人の場合は普通の点滴ではなく、首筋から心臓の近くの大静脈までカテーテルを入れて24時間栄養価の高い点滴をします。
しかし、中にはこれが嫌で、無意識のうちに引きちぎってしまう患者もいるそうです。
しかし、嫌でも強制的に輸液しなければなりません。
患者が寝ている間や知らない間にされた輸液でも、嫌なのにした輸液でも、その患者の生命を維持するためには不可欠なものです。
しかし愛というものはどうでしょうか。

男女の間の愛情からも分かるように、愛というものは受け入れる者の同意なしには成立しません。
強制的な愛は愛として成り立ちません。
神の赦しの愛も同じです。
いくら神様が全能のお方であっても、気づかれること、心から受け入れること、信仰がなければ効力を発揮しません。
赦しの愛が効力を発揮しなければ、最後に待っているのは裁きだけです。

神様の愛を示す代表的なみ言葉としてヨハネ3:16-19 があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」
ここでも「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われています。

でも、救われず、裁かれる人がいるのです。
それは主イエスを通して示された神の愛を受け入れようとしない人です。
「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」と言うのです。
そして「光が世に来たのに、人々は光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」とも断言されています。
そうなのです。
「裁き」を招いたのは、神様の赦しを、愛を、光を受け入れなかった、その人自身のせいなのです。
笛を吹いたけれども踊ってくれなかった方の責任です。

主イエスは、自分が父なる神のところへ導く光であること、またそのことを多くのしるしをもって示されました。
しかし、ユダヤ人たちはそのイエスを信じようとはしませんでした。
しかし、「とは言え、議員の中にもイエスを信じる者は多かった」(12:42) のです。
ただ彼らは会堂から追放されるのを恐れて公にそのことを言い表しなかったのです。
その理由は「神からの誉れよりも、人間からの誉れを好んだ」(12:43)でした。結局のところ、信仰生活というのは突き詰めて言うと、神からの誉れを求めるか、それとも人間からの誉れを求めるかであります。

ヨハネはユダヤ人たちがイエスを拒否したそのことが神を拒否したこと、それこそ暗黒だといいます。
ヨハネはここで世の終わりの裁きについて語っていますが、これは初代教会が
ユダヤ教から受け継いだ最後の審判の思想を前提としているからです。
ヨハネの福音書の特徴は未来に起こる最後の審判よりも現在にあります。
イエス・キリストを拒否すること、信じないこと自体がすでに裁きなのだ、というのです。
しかし、私たちはこのことを表面的に理解してはなりません。

キリスト者だけが救われ、ほかの人は滅びるというように自己中心的に受け取ってはならないのです。
キリストはすべての人の救いのために十字架にかかってくださった。
イエス・キリストを信じるとき神の存在と神の愛がわかり、神に生かされている確信が与えられます。
私たちの存在の意味、生きる目的がわかるのだと理解しなければなりません。


先日のティーンズキャンプは、君に届け、神様のラブレターという主題でした。
神様からラブレターが誰のところにも届いている。
郵便ポストが神様に向いているか、大きなラブレターが受けられるように大きなポストか、と話をしました。


心をかたくなにして、イエス様の言葉、つまり神様の言葉、赦しの愛を受け入れないということ自体がその人を救われないものにするのです。
仁王立ちした閻魔様が怖い顔でにらみながら、神が大いなる権威を持って裁くのではありません。
神の言葉を受け入れようとしない、その人自身が裁きを招いてしまっているのです。
イエス様は言われます。
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある」
「裁くもの」それは彼自身の不信仰です。
神様の愛、イエス様の愛を拒絶するというその人自身のかたくなな心です。
「信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、光として世に来」られたイエス・キリストに心を開いて受け入れる者となりましょう。

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