日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 私たちが見上げるもの  2009/3/22 民数記21:4-9

<<   作成日時 : 2009/03/22 13:01   >>

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今週もやれレントだ、十字架だ、という話をしなければなりません。
イエス様の十字架を覚えて過ごして行きたいと思います。


それならなぜまた、民数記からメッセージをするのかと問う人がいるかもしれません。
本日は、旧約からイエス様の十字架についてメッセージして、来週は新約からメッセージしたいと思います。
この記事は、出エジプトから40年経ち、カナンの地に入るその年の事です。
また、大祭司アロンが死んですぐの時ですから、イスラエルにとっても大きな変化があり、動揺もあったでしょう。
カナン人に対する大勝利の後に、イスラエルの民はモーセと神につぶやき、逆らうのです。
を見ると、「民は途中で耐えきれなくなって」とあります。
人間の心理を表しているなと思います。
「耐えきれなくなって」とは直訳すると、「魂が短くなる」という意味です。
忍耐力や性格の問題ではなく、魂、いのちに関わる問題なのです。
イスラエルは40年もの間、マナを与えられ、水や肉を与えられ、養われました。
戦いも大勝利を経験して、それでもパンや水がなくなると不平不満を言いだしました。
それは、単にこらえ性がないというだけではなく、不安や恐れが爆発してしまったのでしょう。
それはインマヌエルの神を見ていません。
命を下さり、ささえてくださっている神を見なくなりました。
感謝もなくなってしまったのです。
また、おそらくこのような呟きをしたのはエジプト時代を知っている人たちです。
エジプトを出た後に生まれた人々は、その頃の生活は知りませんから、この荒野の生活があたりまえになっています。
しかし、エジプトの生活を知っている人にはすごく不満だったのです。
神が与えられた賜物であるマナをみじめな食物だと言っています。
本当に神が下さったものに対する感謝も、神に対する信頼もない言葉です。
神の恵みをないがしろにして自分の思い通りにしたいのです。
本当に人間は罪を犯しやすいものです。
神の救いを無視して、神に頼らない、信じないのが人間の罪です。
神の救いを見ていながら経験していながらそれに信頼せず、受け取ろうとしないのです。
しかも、大勝利の後に、神のわざを見て経験した直後にそのように思うのです。人の歩みはその思いのとおりになるものです。
みじめな敗北、何もない欠乏と思う人にはそのようになり、神の栄光を現す大勝利、神の恵みのプレゼントと思う人にはそのようになるのです。
私たちは神のプレゼントをどのように思っているでしょうか。
神は、つぶやき、逆らう人々にはさばきを送ります。
燃える蛇がそれらの人々にかみつき、多くの人が死にました。
イスラエルにとってそれは恐ろしいことでした。
そんな時、民は、神に直接祈ればよかったのです。
不平不満を訴えるのではなく、私たちはこのような状況です、と神に祈ればよかったのです。
神に向き合って祈ることもせずに、ただ不平不満を言うだけ、ここにも人の罪の姿があります。
神と向き合えないのです。
また神の言葉を伝えるモーセと心を割って話し合うことができないのです。
ここにも神に対する不信感と、心を閉ざしている姿を見ることができます。
そして、神の裁きにより民は、悔い改めて「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」と7節で言いに来ます。
やっとモーセに対して心から願うことができたのです。
さばきは人をあるべきところに戻します。
神は、その悔い改めに対して救いを与えてくださいました。
まず、第一にモーセの祈りに応えられ燃える蛇を青銅で作り、それを見あげる者は生きると約束を下さいました。
神の約束を信じる者に救いが与えられるのです。
ある人は、この青銅の蛇を拝むとは何事だ、これは偶像礼拝ではないかと言う人がいるかもしれません。
たしかに、神は「拝め」ではなく「仰ぎ見なさい」と言われています。
一見するとそれは詭弁のように聞こえます。

これらのことは何を意味しているのでしょうか?
一つは、私たち人間がいかに目に見えるものを心の頼りにしたがるかと言うことでありましょう。
神以外を神としてはいけない
偶像崇拝がいけないことだとさんざん言い続けているユダヤに人たちですら、このような有り様なのです。
たとえばの話です。
もしノアの箱舟や、失われた契約の箱が私たちの目の前に置かれたらどうでしょう。
私たち日本人は、それらをよろこんで信仰の対象にしてしまうかも知れません。

自分はクリスチャンだから十字架のアクセサリーを好み、キリストの像を拝む人などもいます。
ここで注意しなければならないのは、私たちは神様御自身に信仰を向けているのであって、キリストの像や、十字架のペンダントを信仰しているのではありません。
しかし、このようなわかりやすい偶像礼拝以外にも、もっと知らず知らずの内に陥りやすい偶像崇拝というものもあります。
これらは、全て過去の恵みに心の支えを置いていることで、後ろ向きの信仰状態なのです。

それだけ、偶像崇拝は誰でも陥りやすいものです。
周りの人によって知らず知らずの内に影響されてしまっているかも知れません。
実際ユダ王国でも王様こぞって 偶像礼拝をしていました。
しかしそのような中でも、しっかりと信仰を守った人は沢山いるのです。
結局の所、周囲がどうであれ、我々一人一人がしっかりとした信仰を持つことが大切なことだといえるでしょう。

青銅の蛇を見上げるということ。
ある人は、これは神の約束を信じて、その指示に従う者はいのちを得るという訓練だ。というのです。
その青銅の蛇の先に民は神を見たのです。

神を仰ぎ見たという、神の救いは、蛇にかまれても生きる、というものでした。
この燃える蛇の毒はすさまじく多くの人が死にました。
しかし、神の約束を信じて仰ぎ見た者は生きることができたというのです。
本来、人間の力によってはどうすることもできない、圧倒的な力を持って私たちに迫ってくる死の力を超えて、生かす力があるということです。

人を殺すのは何でしょう。
蛇でもなく、さばきでもなく、人の、私たちの罪によるということです。
神を信じない、神に信頼しない罪が死をもたらすのです。
しかし、民は、悔い改めて神に立ち返りました。
ここで断絶していた民と神との関係が修復されるのです。
ただ、直ったとか蛇にかまれずにすんだというようなものではなく、蛇にかまれてもなお生きることができたのです。
ですから、救いとはただ命が助かったというものではなく、神との関係の回復なのです。
神に信頼しない罪の解決がなされることが救いなのです。
人は蛇にかまれなくてもいつかはまた、死ぬのです。
しかし、神に信頼する者は死の危険と恐怖の中で、いのちである神との関係が回復され、いのちのうちに生きることができるのです。
ですから、この救いをいただいた人にとって、もはや死はさばきでも滅びでもなく、永遠への門なのです。
かまれないこと、罪を犯さないことが人にとって恵みなのでなく、罪を犯しても神に信頼し神と結ばれることが恵みなのだなと思います。

最後に、救いとは神の恵みです。
「アメ−ジンググレース」驚くばかりの神の恵みを賛美があります、神の恵みは計り知れません。
ヨハネ3:13,14を見ると、この青銅の蛇はキリストの十字架を表すものとされています。
燃える蛇はさばきでした。
そのさばきを表わす青銅の蛇はいのちを与えるものでした。
同じようにさばく神ご自身が身代りの代価を用意してくださったのです。
普通は損失を与えたほうが償うのです。
罪を犯した人が刑罰を受けるのです。
しかし、人間はその償いを用意することができないので、神ご自身が用意してくださったのです。
これではあべこべですが、人間には用意できないのです。
神は、償いをご自分で用意されるほどに人との関係の回復を望んでおられるのです。
青銅の蛇は、裁くものが救うものとなりました。

同じようにキリストは、神であられる方が私たちの罪の身代りとしてご自身を与えてくださったのです。
人には支払うことができないので、神が支払ってくださった。
この青銅の蛇を仰ぎ見たのはカナンの地に行く直前です。
約束の地に行くためには仰ぎ見て生きる必要があったのです。
この箇所の直訳は「彼を見ると生きる」です。
約束の神の国に行くにはキリストを仰ぎ見て信じることなのです。
このキリストの十字架については、「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」とローマ1:16に書いてあります。
キリストの十字架が救いを与えるのです。
彼を仰ぎ見る者は生きるのです。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」とTコリント1:18にあります。
そんなことあるか、信じられない、そう思う人がいるかもしれませんが、イエスキリストは天から下られた救い主です。
このキリストが私たちの身代りに十字架につけられたことを信じる者は、救いを受けることができるのです。

イエスが私たちに示してくださった愛は捨身の愛です。
イエスは私たちのために何を捨てられたのか。
第一に、イエスは神の栄光の御座を捨てられました。
神の御子がご自分を無にされ、仕える者の姿を取り、人となられました(ピリピ2:6-8)。
それは私たちとともにあるためであり、私たちの悲しみや苦しみを味わうためである(ヘブル4:15)。
第二に、イエスは私たちのために世の安楽を捨てられた。
貧しい大工の息子として生活の苦労をされたぱかりか、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もない」(ルカ9:58)と言われるような生活をされたのである。
第三に、イエスは私たちのためにプライドを捨てられた。
罪のない、まったく正しい神の御子が「罪とされ」(Tコリント5:21)極悪人の汚名を着せられ、十字架の辱めを受け、のろわれたものとされた(ガラテヤ3:13)のである。
第四に、イエスは私たちのために「いのち」を捨てられた。
彼の全存在、「ご自身」を捨てられた(ガラテヤ1:4)。
ご自身の聖なる血をどくろの丘に注ぎ出してくださったのである。
それは私たちの罪を腹うためであった。
この捨身の愛に、私たちはどう応答すべきか。

そのような時、私たちの誰もが見上げることのできるもの、いや、見上げなければならないものがあります。
モーセは、それを高く掲げました。
神を見上げるために、天を見上げるために掲げたもの。
それこそが「青銅の蛇」であります。
それは「神が共にいて下さる以上、我々の命を脅かす脅威はもはや存在しない」という人生の真実の象徴です。
それを信仰の対象とするのではなく、約束の証として仰ぎ見るのです。
誰もがそれを仰ぎ見て、この人生の真実を知ることができるように、この「青銅の蛇」は高く掲げられたのです。
教会の建物には十字架がついています。
塔がある場合は塔の先端に。
最近、みなさんは私たちの教会の十字架を見上げたでしょうか。
高いところにある十字架を見上げるのは、きついものです。
首が痛くなります。
同時に心も痛くなるのです。
本日はあいにくの曇り空です。
しかし、その先に広がる青空、天を思い、広がる宇宙に思いを寄せ神の愛を思う。
神の愛を思って初めて私たちの心は温かくなるのです。
苦しみの向こう側にある希望にまで目をやらねばなりません。
目に見えるものだけを追い求めるのではなく、目に見えない神の豊かな哀れみに感謝して歩んでまいりましょう。

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