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zoom RSS 王に聞き従う 2009/3/15(夕礼拝) 出エジプト20:1−17

<<   作成日時 : 2009/03/15 20:47   >>

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先ほど朗読しました福音は、主イエスが神殿で大暴れする場面です。
弟子たちが聖書の言葉を思い出したように、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」その熱意が主イエスを動かしてあのように振る舞われたのです。

今晩はこの箇所を、十戒の「父母を敬いなさい」と結びつけて考えてみたいと思います。
神殿が礼拝の場で、商売をしている人たちが、巡礼に訪れた人を食い物にしていることに怒ったというのも一理あります。
しかし、神殿にとどまっておられるのはまぎれもなくご自分の父、父なる神でした。
ルカ2章には少年期の主イエスの記事が記されていますが、行方不明の息子に気づいて
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
という箇所があります。
エルサレムの神殿は父なる神の家であるという一貫した認識が貫かれています。
これは主イエスだけでなく、イスラエル全体の共通した意識のはずでした。
主イエスとしては、商売人の行き過ぎた振る舞いは、父の前で繰り広げられていたということでした。
父への尊敬から、こんなことをさせたくないと思ったと考えても悪くないと思います。
どれだけ神殿を大切に考えておられたか、また同時に、どれだけ父を尊敬していたかを表す良い例ではないでしょうか?
ここに、主イエスの正しいことへのこだわりと態度を、はっきりと見ることができます。

怒りそのものは感心できるものではありませんが、私は主イエスの怒りが弟子たちを立派に教育したのだと思います。

さて、そのことを踏まえて、父と母を敬え、という御言葉に戻ります。
父と母を敬え、と言われて、「はい、私は十分父と母を敬っています」と言える人がどれだけいるでしょうか。


十戒の後半部分は、わたしたちに親しい人とのかかわりにおいて生きることが命じられている部分です。
この部分は他の国にもよく似た言葉があるためか、神様抜きで考えられることが多いようです。
しかし隣人とのことは神との関係においてこそ受け取られるべきです。
十戒にはすべて相手がいます。
わたしたちの相手は言うまでもなく神です。
わたしたちは神を真の相手として生きており、その具体的は表れとして父と母がおり、他人がおり、友人があり、また配偶者がおり、隣人がいます。
神様抜きでこれらの戒めを受け取るほうが難しいといわざるを得ません。
父母を敬いなさい、殺してはならない、姦淫してはならない、という戒めなどは特に神様の前でこそ問われるべきことであります。
またわたしたちも神の前であるから、この難しい問いに答えていくことができるのです。
十戒は、出エジプト記20:2の前文から始まります。
この前文は最初に言えばそれで済む、というのではなく、どの戒めにも結びついています。
この「わたしは主、あなたがたの神、あなたがたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である」という前文は第五戒においてもしっかりと結びついています。
神が相手であることを父と母とのことにおいても受け取るべきです。
それを怠りますと、人間同士のどろどろとしたものに巻き込まれて、少しも恵みの戒めになってまいりません。
十戒を神とのかかわりで受ける、ということは、わたしたちの真ん中に主イエス・キリストがいてくださるということです。
だからこそ、親と子、夫と妻、隣人とのかかわりを恵みとして受け取ることができるのです。
敬う、それはその人を重いものとして扱う、という意味です。
重んじる、文字通り軽く扱ってはならないのです。
尊敬する人として親をあげることのできる方は幸いです。
それでは親を敬えない人はどうなるのか。
とても尊敬できない、好きになれない、それどころか赦せない、憎んでいる、という場合も多いかもしれません。
しかし、主イエス・キリストがわたしたちの中におられるならば、わたしたちはお互いを重く見ることができます。
キリストを間に置くことによって、わたしたちの交わりは成立し、敬うに値するから敬うのではありません。
わたしたちはまず親と出会います。
こどもにとって初めて出会う、自分とは違う人間、それが父であり、母です。
わたしたちがここに存在しているということは誰かから生まれたからです。
すべての人は親を持っています。
親子の関係が愛と尊敬の関係でないとき、私たちは他の人間関係にも影響を及ぼします。
父と母を敬い、愛することが出来ないで、他の人間関係を上手く築くことは出来ません。

夫婦の戒めよりも先に親が出てくるのはこの意味においてです。
親を受け入れることは、自分を受け入れる。
また、わたしという存在を有らしめたものを受け入れることです。
親の背後には神がいらっしゃるからです。
十戒は少年や少女に対しての戒めではありません。
親とどうかかわるのかは、すべての年齢において問われています。
相手に向かい合う、それが大切ですが、さらに大切なこと、それは共に神に向き合う、ということです。
一緒に神様に向かう、その真ん中にキリストがお立ちくださるのです。
神がキリストとしてわたしたちの間にお立ち下さるのです。
キリストが共にいてくださるので、わたしたちはお互いを受け入れることができるのです。

私たちはキリストの愛を受けて、両親を愛し、敬うことを行わなくてはなりません!
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」Tヨハネ4章20節
まして両親に対する尊敬と愛を疎かにして、神を愛することは出来ません。これは厳しい言葉ですが現実です。なぜなら愛は理想ではなく、関係にあるからです。
神は先ず父親が神への愛を家庭の中で、心と精神と力を尽くして行うことを命じています。

神の声に聞き従うのには、技術がいると思います。
何もしなければ聞こえてこない、聞こえていても理解できない、そんなことがあります。
しかし、普段から御言葉に親しみ、御言葉に聞く習慣を持ってさえいれば、神様からの微妙な勧めを感じることができます。
御言葉を聞き、よい羊は羊飼いの声を聞き分ける、と主はおっしゃいました。
心を鎮めて十字架をおもう受難節だからこそ、神経を研ぎ澄まして神のみ声に聞き従いましょう。

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