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zoom RSS 仕える者になりなさい 2009/3/8 マルコ10;32

<<   作成日時 : 2009/03/08 00:27   >>

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さて、主イエス一行はエルサレムに向けて歩いている時のことでした。
一行は今までも旅をしてきましたが、一層十字架に向けてまっすぐに歩み始めていました。
主イエスは来るべき十字架に気持ちを向けつつ慎重な面持ちであったと思われます。
そのような姿に触れて、弟子たちも、時の訪れを感じていました。
いよいよだ。そう感じていたに違いありません。
しかし、このいよいよは、やっと自分たちの国が独立できる、とか、漠然と神の国が来る、とかいう意味でありました。
主イエスはこの時まで3度、自らが十字架にかかると宣言されていました。
しかし弟子達はちゃんとそのことを受け止めることができていなかったのです。

今日の聖書箇所には、ご褒美を求める二人が出てきます。
並行記事のマタイによると、この二人の母が自分の息子を思うあまり、主の右と左に付かせて欲しいと願ったとあります。
ゼベダイの子、ヤコブとヨハネです。
この二人は、ペテロと並んで重要な弟子でした。
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
と記されていますから、この二人以外もこのような下心があったに違いありません。
弟子達は、誰もが主のそばにいたいと願っていました。
みなさんもきっとそうだと思います。
永遠の祝福をくださる方のそばにいることができたなら、どんなにすばらしいことだと考えることはむしろ当然かもしれません。

この弟子たちの自分勝手ともいえる願いを聖書ははっきり記しています。
主イエスから直接教えを聞き、多くの奇蹟を目の前で体験した使徒達です。
きっと初期のキリスト教会においてはかなり重要な位置にいたと思われます。
教会で重要なポストにいればこそ、自分たちに都合の悪いことは伝えないようにと圧力を掛けて隠蔽工作をすることもできたはずです。
しかし、マルコとマタイにおいてこの記事は詳細に伝えられています。
自分たちが犯してしまった人間的なおろかさをあからさまにしているのです。
それは、人間が陥りやすい過ちであり、そんな思いをも越えた神の愛がそこにあるからではないでしょうか。
きっとこのことを通して、学べ、という意図が含まれているのだと思います。

この箇所は、私たち日本人にはとても理解しやすい箇所だと思います。
日本人は、謙遜を美徳とします。
ですから、この二人の取った出すぎた行動に対して、「出るくいは打たれる」という心理で読んでいます。
日本人は謙遜を好むと申しましたが、この日本人の考える謙遜は、基本的に自分が成功するための謙遜だといえると思います。

一生懸命身を低くすることによって、成功を得るという
考え方が根底にあるのではないでしょうか。
成功してだれかに認められたい。
人はこのことを願うのです。

勉強で、運動で、社会で、奉仕、成功して評価を受けて満足する社会に生きています。
そのことによって自分自身の存在価値を認めてもらい、自分自身で確認することによってのみ安心ができるのです。

教会においても同じことが言えます。
大人数での礼拝、立派な会堂、充実した設備、多岐にわたる地域活動。
このようなことで主に栄光を返したい。
宣教は成果主義ではない、と口にしつつも私たちは結局はこの世的な秤でしか評価することができないものです。
そして、そのような秤で人から評価を受けることに満足を得ようとしてしまいます。
沢山の人々に教会に来てもらって、キリストの愛を伝えたいと言う願いは変らないのですが、どうも目先にとらわれてしまいます。

礼拝堂を建てることが目的ではありません。
礼拝出席者を増やすことが目的ではありません。
そのことを見失ってしまうと、福音の本質を見失ってしまうことになります。
真実に主に従っていく道とは違う道を歩んでいることになってしまうのです。

しかし、神様の求める謙遜は、自分を捨てて神に従うと言うことです。

ではどのようにすればいいのでしょうか。



キリストと人間の関係について考えてみたいと思います。
この時、弟子達は誰よりも自分が主のそばにいたいと願いました。
今日の箇所の少し前、31節には「先のものが後になり、後のものが先になる」と教えられていたにもかかわらずです。
弟子達は、これ彼主が受けられる十字架の意味を理解できませんでした。
いいえ、主のおしえそのものをきちんと理解していなかったのです。


私達は神との関係は絶えず良好であると考えます。
しかし、それは錯覚か誤解しているに過ぎない場合が多いのではないでしょうか。
つまり、自分勝手に考えている証拠ではないかと。
例えば、二者で生きるとき、二者は絶えずそれぞれの意見や思いがある筈です。
一方が好き勝手に生きていては、相手はそれに振り回され、納得する筈もないであろう。
当然である。
信仰生活の穴は、相手(つまり神であり、キリスト様)の意見を無視しながら、関係のことを考えない私達の無知にある。
それを考えもせず生きているとどうなるか?
なって初めて気づくから恐いのだ。

『神との関係が崩れると、心が崩れ、生活が崩れ、奉仕が崩れ、全てが崩れ、一生が崩れる。』
殆どの人が錯覚している。「自分と神との関係は崩れていない!」と。

主は「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。と言われました。
すでに、弟子たちはバプテスマを受けていたはずですし、何度もともに食事をしていたはずです。
これは原典に忠実に訳すのであれば「私こそが飲むべき」「私こそが受けるバプテスマ」となります。
主こそが受けられる十字架と死を象徴しています。
主ご自身がゲッセマネの祈りの際に、この苦しみを私の杯と表現しています。
主とともに苦しみを受けることができるのか?
本当にできるか?と問うのであります。

先週の役員会の話の中で、「できない」とは言わない、という話になりました。
たしかに、いろいろな状況にあって、私たちに「自分にはできない」という現実が訪れます。
たしかに人間の能力、体力には限界があります。
しかし、私たちにはできるのです。
みなさんのお顔を拝見しながら話ができないのが歯がゆいのですが、自分にはできないと思ってしまったのでは、何もできません。
39節で弟子たちは、「できます」と答えています。
やりもしないで、祈りもしないで、できませんといってしまうのは、いわば福音の冒涜だといえるでしょう。

昨年の高根姉妹の洗礼式のなかで、さいごにこのような宣誓がありました。

あなたは、この信仰のもとに、キリストのからだに連なる者となり、御言葉の教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯をおくりますか。
私は、教会は、信仰生活においてはまだまだ未熟な高根姉妹に対し、このような問いをなしました。
はい、神の助けによって
私たちは、神の助けなしには、信仰生活を守ることもできないのです。


主イエスが多くの人の贖いの代価として、ご自分の命をささげられるために来た、とあります。
「身代金」は別の訳の聖書では「贖いの代価」と訳されています。
これが意味していることは、現代に日本の社会ではあまり理解することができないかもしれません。
これは、古くは古代オリエントの、そしてパレスチナや地中海沿岸でおこなわれた取引きを下敷きに考えなければならないからです。
身代金とは、先に述べたとおり、お金をはらって買い戻すということです。
そして、それは、奴隷とされた人の解放を意味します。
すなわち、主イエスは、奴隷になっている私たちのため、自らの命を身代金としてさしだし、私たちの解放を実現したということです。
では、私たちは何の「奴隷」だったのでしょうか。
なにから解放されなければならなかったのでしょうか。
第一に考えられるのは、私たちの「罪」からの解放です。
罪の状態とは、神にそむいた状態です。
私たちを造られた神のみ旨に、したがわず、自分中心の生き方です。
これによって、私たちは本当の幸せを失ってしまいました。
第二は、私たちの住む小さな世界を唯一の世界と思い、その外にひろがるおおきな世界を見ない、視野の狭い私の世界に閉じこもることからの解放。
つまり自らの周りに囲いをつくり、そこから臆病にも出て行けない自分自身からの解放です。
その狭さゆえに、他者を批判し、軽蔑し、認めようとしない生き方は、まさに解放を必要とするものです。
そして、その「買戻し」の身代金として、イエスは自分の命そのものをわたされたということです。
それはヨハネ福音書にもある、「自分の友のために命をすてる」という言葉にも通じます。
イエスは私たちを、もはや奴隷としてではなく、「友」として命を引き渡したということに他ならないのです。
もしも、自分の知り合いのなかで、自分自身の身代わりとなって死んだ人がいるとしたら、私はその人に対しどのような思いを抱くでしょうか。
どのような態度をとるでしょうか。
おそらく、その人は自分の生涯の恩人、死んでもわすれることのできない、尊い存在であるはずです。
イエスとは、実に私にとってそういう人であること、それに気づき、信じることに、信仰の核があるように思えます。

ヤコブは使徒の中で最初に殉教したと言われています。
イエスに従うこと、信仰を全うすることで、死をも辞さなかった人です。
一方、ヨハネは使徒の中で最後に殉教したといわれています。
友や兄弟、信じる者たちが信仰による苦しみを受けて死んでいくのをすべて見ながら死んで行きました。
確かに彼らは苦しんで死にました。
しかし、そのことが功績なのではない。

ヘンリーナウエンという人がこのように言っています。
神の栄光は人と栄光とは正反対であるといえよう。
人は上に上がることによって栄光を得ようとしますが、
神は下に下がることによって栄光を得ようとする。
もし、私たちが本当に神の栄光を見たいと望むのであれば、主イエスとともに下に降りなければならない。
本当に神をあがめ、主に従いたいと願うのであれば、主に従って下へと降りていかねばならないのです。
プライド、財産、名声、などすべて下ろして主に従うのです。

栄光を求めて主の下に歩み寄った弟子たちに、主の道は僕になることであると示してくださいました。
ですから、主が払ってくださった、愛の身代金によって私たちは救いを得ています。
この世におけるご褒美ではなく、神の国での栄光を信じて
主イエスの示すとおりの道を歩んでまいりたいと思います。


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