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zoom RSS 神と出会い守られる  2009/03/01  マルコ1:12-13

<<   作成日時 : 2009/03/01 15:34   >>

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本日のテキストでありますマルコ1章の12-13節はあまり説教で取り上げられない箇所だと思います。
「荒れ野の誘惑」を取り上げて説教をするのであれば、マルコではなく別の福音書を用いると思うからです。
マタイやルカの福音書は十数節のボリュームがあります。
一方、マルコはたった2節でこの40日間を表し、どんな会話があり誘惑を受けたかも、どのように悪魔を退けたかも語っていません。
実は、説教をするなら材料が多いほうがしやすいからです。
どうしてマタイやルカ福音書では内容をふくらませ充実させた記事だったのに対しマルコではこのように簡潔にまとめたのでしょうか。
これは、マルコがこの出来事の資料を持っていなかったとか、この出来事の本質について理解できていなかったからという解釈もできるでしょう。
しかし多分そうではないでしょう。
マルコはあえて、このように象徴的な短い文章でこのことを表したかったのだろうと思います。

では詳しくテキストを見て行きたいと思います。
先ほども申し上げましたがマルコは壮絶な荒れ野での40日をたった2節で表しています。
その短い2節の中に豊かなキーワードを示してくれています。
12 節「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」霊という字にクォーテーションマークス(“ ”)が付いています。
これは原文に「神の」とか「聖なる」と言う形容詞が付いていなくても、明らかに「神の霊」「聖霊」であることがハッキリしている場合には、新共同訳聖書では“霊”とクォーテーションマークスを付けて訳すことになっています。
本日の直ぐ前に主イエスの受洗の記事があります。
バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた主イエスがヨルダン川の水から上がられた時、“霊”が鳩のように降ったとあります。
その神の“霊”が主イエスを荒野に送り出したということです。

よく「可愛い子には旅をさせよ」などと申します。
まさに神の霊は主イエスの神の子・メシアとしての人生のスタートに当って主イエスを荒野に送り出したのです。
親の気持ちでは、子供には旅を経験してほしいと思うものです。
親がそう思うのは、いずれ親元に帰ってくるということが前提であるからだと思います。
子供はいつか親の元を離れていきます。
その予行練習として、自分だけですこし歩いてみる。
そんなところでしょうか。

この時、主イエスは「あなたはわたしの愛する子」という宣言を受け取っていました。
天の神様の子としての資格・身分・保証を得ていたことです。
しかも、「わたしの愛する子」と言い表した聖霊自らによって、荒れ野へと導かれたのであります。
このような保障があったから主は堂々とこの誘惑に立ち向かうことができたのかもしれません。

しかも、イエスを荒野に「送り出した」という表現が気になります。
映画「送り人」がアカデミー賞を受賞したと話題になりました。
厳密には「追い出す」という意味です。
荒れ野が象徴するのは、試練、苦しみや葛藤というものです。
そして、その預言においてメシアもそこから来るところです(イザヤ40:3)。
また、「荒野」は神の終末的な栄光が顕現する場所です(イザヤ35章、イザヤ43・19〜21)。
聖書において「荒野」は預言者が来る場所です。
ですから、先駆者である預言者ヨハネは荒野に現れて、「来るべき者」のために道備えをしたのでした。
御霊を受けた者をあらゆる人間的交わりから追い出して、人里離れた荒野に連れて行きます。
御霊は神との交わりの現実に導き入れるためです。
主イエスも実際にヨルダン川から上がってどこかの荒野に、御霊の抵抗しがたい力に促されて入って行かれたのである。
それは、一切の人間関係から追い出されて、直接霊なる神と対面するためでした。
神からのみ語りかけられ、神と向き合うため、聖霊によって導かれたのです。

今主イエスは荒野にいて、神の栄光を拝し、神からの全き啓示を受ける必要がありました。
そして、そこから「神から遣わされた者」として世に現れることになるためにです。
この荒れ野という言葉は、山とか、湖、という単なる自然界の場所を指しているだけではありません。
人間についても用いる言葉です。

「荒れ野」のような人、私たちはどのような人を思い浮かべるでしょうか。
できれば避けて通りたい、目を合わせたくない、そんな人を思い浮かべるかもしれません。
この「荒れ野」のもともとの語源は「捨てる」という意味です。
捨てられ、誰からも省みられない場所、捨てられた場所が「荒野」になるのです。
福音書には、もみくちゃにされるイエス様が、人里はなれたところに行った、という箇所がいくつか出てきます。
ここも「荒れ野」と同じ言葉です。

ユダヤ人にとって、荒れ野は恐ろしいところでした。
悪魔と汚れた野獣の住むところでした。
ほんの少し前に、天から、「あなたは私の愛する子」と宣言した聖霊ご自身が、主をこの捨てられた地に導いたのです。
そして、そこで主は40日留まりました。
この「四十」は苦難と試練の時をさす象徴的数字です。

かつてイスラエルは40年、荒れ野を旅しました。
かつてモーセは40日40夜シナイ山で断食しまし、安住の地を求めてさまよいました。

ノアの物語において大洪水は40日40夜続きました。
イスラエルは四十年のあいだペリシテ人に渡されていました。
エリヤは40日40夜荒野を渡ってホレブ山につきました。
これらと同じように主イエスは神の啓示に与るのと同時に、40日サタンに試みられ、サタンと苦闘したのです。
サタンとは、本来の自分を見失わせてしまうものです。
このサタンとの戦いにイエスが勝利されたことを、マルコは「彼は獣と共におられ、御使いたちが彼に仕えた」という一文で語っています。
マタイとルカにあるように具体的な試みについて、やれ、ああ言った、こう答えたとのやり取りが記されています。
しかしあえてマルコはそのことについて一切触れませんでした。
「サタンに試みられた」の結果となる次の場面としてこの部分は語られます。
それはどんな誘惑があろうとも、ぶれることのない信仰と確信があったからではないでしょうか。

この「獣と共にいる」とは、いつも野獣の襲撃の危険にさらされているという意味ではありません。
聖書においては、人が獣と共にいるのは終末的平和の象徴です。
本来、アダムはパラダイスにおいてすべての獣に名を与え、共にありました。
しかし、アダムの背神の罪のために地が呪われるようになってからは、人はごくわずかの手懐けた獣の他は共にいることができなくなってしまいました。
獣の襲撃を恐れなければならなくなりました。
しかし終わりの時に、神が地に救いの業を成し遂げ、人の罪がぬぐいさられます。
その時には、すべてのものの平和が実現し、人は獣と共にいることができるようになる。
狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
その終末的平和の光景をイザヤはすでに預言していました(イザヤ11・6〜9)。
ですからマルコが「獣が共にいた」というのは、この預言が主イエスにおいて成就したことを語っているのです。

最後に、「御使いたちが彼に仕えた」とあるのも、これと同じく神と人との交わりの回復を象徴する光景です。
ここで「彼に仕える」と訳されている動詞は、正確には「彼の食事に仕える、給仕する」という意味です。
当時のユダヤ教の聖書解釈によれば、アダムはパラダイスにおいて天使たちの食物によって生活したと考えられていました。
サタンとの激しい戦いに打ち勝たれたイエスに、天使たちが食物を備えて仕えられた。
これも、人間の終末における栄光を指し示していることがわかります。

荒野の試みに関するマルコの短い記事は、イエスをアダムとの対比で描いていることが浮かび上がってきます。
アダムがパラダイスで失ったものをイエスが荒野で回復されたのです。

マルコはパウロの活動時期以後に福音書を書きました。
ですから、第一コリント15章45節キリストを「終わりのアダム」だと捕らえるのを知っていたはずです。
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
これはサタンの誘惑に負けて神に背き、罪と死の支配を引き入れてしまったアダムとの対比です。
サタンとの決戦に打ち勝たれた主イエスを描くことにより、マルコはこの方こそ「終わりのアダム」、すなわち終わりの日に創造される新しい人類の頭(代表者)たるべき方であると示唆しているのです。
 
時に、聖霊は私たちをこの荒野へ追い出すことがあります。
そんな時私たちは直面する困難、恐れ、不安、空腹、迷いなどに翻弄されます。
荒野は悪霊が支配し、さまざまな罠が待ち構えています。
しかしその荒れ野こそ、神を見出し、神と対面する場所であります。
神様の身声に従い、神を見上げて生きるとき、荒野は神様が守ってくださる、祝福してくださるところとなります。
神につながっていなければ私たちはすぐにサタンの誘惑に負けてしまいます。
あっという間に、サタンの攻撃を受けて傷つき、打ちひしがれてしまいます。
神様につながり続け、私たちが神から、十字架から目を離さなければ大丈夫です。

私たちはいま、レントの時を迎えました。
悔い改め、福音を信じ、聖霊を受けるために。
聖霊と向き合い、サタンと対決するために、
そして主の栄光の勝利を受けるために。
荒れ野での苦難と試練の向こうにある主のパラダイスの希望を胸に歩んでまいりたいと思います。

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