日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 救いはどこから 2009/2/8 ヨハネ4:1-22

<<   作成日時 : 2009/02/08 13:08   >>

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主イエスとの出会いを経験すると人生の変わる人がいます。



昨年学びましたニコデモという男性が主と出会ったことについて学びました。
もうひとつの出会いが、本日学びます箇所であります。

本日の物語の背景には、いくつかの「壁」が存在しています。
みなさんもすぐ思いつかれるのは民族間の「壁」です。
サマリア人は本来ユダヤ人と同じ神を信じていたのに、エルサレムで礼拝を許されなかったためにゲリジム山で礼拝を守っていました。
著者は 「シカル」という町について、「それは、ヤコブが彼の息子ヨセフに与えた土地の近くにある町である」(五節後半)という説明を加えています。
「ヤコブが彼 の息子ヨセフに与えた土地」というのはシケムを指しています。
シカルは「スカル」とも呼ばれ、エルサレムから北へ約五〇キロにあるシケム遺跡の近くにある現在の「アスカル」という地ではないかと考えられています。

イスラエル十二部族の先祖であるヤコブが、その死の直前に特別に愛した息子ヨセフに、他の兄弟よりも大きな一つの「分け前」を与えました(創世記四八・二二)。
その「分け前」はヘブライ語で《シェケム》となり、そのまま町の名となったのが「シケム」です。
この女性は都市のサマリア出身者でシカルに住んでいたことになります(地元の女性ではないという含意)。
都市サマリアはシケムから北西に10キロあまりのところにあります。

エルサレムか、ゲリジム山か、礼拝の場所の問題は、ユダヤ人とサマリア人を隔てる大きな壁の問題でした。
ゲリジム山での礼拝は、

もう1つの壁は、男女の間の「壁」です。
当時の社会では、男性と女性は対等な人間同士として関わることはできないと考えられていました。
女性は男性の性的欲望の対象であり、だからこそ距離を設けて守られるべき存在と見られていました。
道端で男性が見知らぬ女性に声をかけ、立ち話をするということは考えられなかったのです。
ですから、主イエスが彼女に声をかけ、彼女と話していることにこの女性自身も弟子たちも驚いたわけです(9節、27節)。

さらに、この女性と町の人々との間の「壁」です。
「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)
この女性はイエスにこう言いあてられます。
罪びとというよりも、男運に恵まれず、つらい思いを繰り返し、心が深く傷ついている女性というべきかもしれません。

この町でのこの女性の評判は決して良くなかったでしょう。
当時、水汲みは女性の仕事でした。
女たちは朝や夕方に水汲みに集まり、そこでさまざまな情報交換(井戸端会議)をしたのです。
「正午ごろ」(6節)水を汲みに来たこの女性は、他の女性たちと顔を合わせたくなかったのではないかと考えられています。

主イエスはどのようにこれらの「壁」を乗り越えていったのでしょうか。
主イエスは自らも疲れ、渇く者としてこの女性に出会いました。
よく考えてみると弟子たちが全員いなくなり、主イエスだけが井戸端に残される、という状況も考えにくいと思います。
しかし、そのような状況が必要だったのです。

イメージしてみてください。
疲れ果て、のどが渇いている男がありました。
「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」(6節)と書かれています。
きょうの箇所の直前に、イエスの活動が誤解され、ユダヤに留まることができなくなったという記事があります(1-4節)。
ですから、主イエスの疲れには、単なる旅の疲れだけでなく人々の無理解によるダメージという面も含まれているのかもしれません。
弟子たちは食糧を買いに行っていた、とありますから空腹であったのかもしれません。
だとすれば、イエスの姿は、人とのつながりを失っていたこの女性の苦しみと似ているかもしれません。
井戸を覗けば見えるところに澄んだ水があるような豊かな井戸のそばに座っています。

そこに水がめを持った女性がやってきます。
この女性は、座っているのが旅人であるということがわかりました。
自分の素性を知らないユダヤ人だから、近寄って行けたということもできるでしょう。
まず、主イエスのほうから「水を飲ませてください」(7節)と。
この女性はいつも町の人たちに蔑まれて、いくつもの壁の中に心を閉ざしていました。
そんな自分に水を飲ませてくださいと飛び込んでくる旅人の声を聞くのです。

このときの立場は水がめを持っているこの女性のほうが優位だったといえます。
「あなたはユダヤ人であり、わたしはサマリア人であるのに、どうしてわたしに水を飲ませてくれと頼むのですか」。
若干上から目線の発言のように思えます。


ここでこの女性は「サマリア人」と呼ばれています。
この名詞は九節に三回出てきます。
最初に「サマリア人である女」、二番目では「あなたはユダヤ人で、わたしはサマリア人であるのに」という形で、三番目には「ユダヤ人たちはサマリア人たちと」という複数形で用いられています。
これは日本人、日本出身の人という意味と私たちは理解します。
しかし三箇所ともサマリアという都市または地域の住民という意味ではなく、「サマリア教徒」という意味です。
この呼び方は、当時のユダヤ教徒とサマリア教徒との対立が背景になっています。
サマリア教徒が礼拝したのが冒頭でお話しましたゲリジム山です。
ユダヤ人はサマリア人がエルサレムで礼拝させてくれないので、このゲリジム山で礼拝をささげるようになりました。
するといつしか、本来のユダヤ教から少しずつはなれて、別のものとなりました。
もともとは同じだったが分かれてしまった人たちというのは、はじめから別のところにいた人よりも遠くなってしまうものなのかもしれません。
現在を生きる私たちもそのような感覚をもつことがあります。
ペンテコステ派の教会は、私たちナザレンとは


この女性が発する
「どうしてわたしに水を飲ませてくれと頼むのですか」という問いは驚きの表現です。
ユダヤ人はサマリア人を異教徒の血が混じった汚れた民であるとして、接触を避け、その持ち物、特に食器に触れることも汚れとして避けていました。
従って、ユダヤ人がサマリア人から提供される飲食物を彼らの食器を使ってとるのはきわめて異例のことになります。
この女性は、一人のユダヤ教徒の男性が、一人のサマリア教徒の女性に親しく語りかけ、しかも彼女の器で水を飲ませてくれるように頼んだことに、大いに驚くのです(女であることは問題になっていません)。
 
このサマリア人の女の驚きを説明するために、福音書記者ヨハネは「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 」(九節後半)わざわざこんな説明文を対話の中に挿入します。
おそらくこの文は、ユダヤ教徒とサマリア教徒との厳しい宗教的対立を知らない異邦人がこの箇所を読んだ時のために、著者または編集者が挿入した説明です。

主イエスは答えて女に言われます、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 (一〇節)。

この泉は、どこか他にあるのではなく、恵みの泉は私たちが主から福音を頂いたその瞬間から、一人一人の中でわき上がることを示しています。


水はいのちのシンボルです。
人間の体の70%が水だそうです。
「生きた水」(10、11節)は、ヨハネ7・37-39では「聖霊」のことを意味していますが、ここでは「人を真に生かすもの」と考えることができます。

もしこのサマリア人の女が、苦しんで一杯の水を求めている男が、実は神から遣わされた方であることが分かっているなら、この方に頼んで神の賜物を求め、この方から「生ける水」という象徴で指し示されている神の賜物を受けたことであろう。
そのように、もし世の人々が、地上で十字架につけられたイエスこそ復活して神の子とされた方であることを知ったならば、その方を信じ、その方に求めることによって、まことの命の糧である聖霊を 受けるのだと、この福音書は語ろうとしているのです。
 
この「生ける水」というのは本来、器に入れられた水に対して、「湧き出る水」、「流れる水」を指しています。
著者ヨハネはこの表現を、神が与えてくださる尽きざる命、すなわち聖霊を指す象徴として好んで用います。
この後、箇所(七・三九)では、はっきりと「生ける水」とはイエスを信じる者が受けることになる聖霊すと出てきます。
ただ、この対話の場面では、イエスはまだ復活者キリストではありません。
神の賜物である聖霊も降っていないのですから(七・ 三九)、「与えたことであろう」という、事実でない状況の中で述べる形(仮定法)で語られることになります。

このように、後になって考えてみると、自生が一致しないところが聖書には良く出てきます。 
イエスがいつも霊のことを語っておられます。
しかし、それを聞く者が地上の身体的または物質的な意味でしか理解しないというすれ違いは、すでにニコデモとの対話においても印象的でした。
ここでもサマリアの女はイエスの言葉をまったく物質的な意味にしか理解できず、こう言います。
「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」(一一〜一二節)。

私たちは、このかみ合わない会話に何を感じるでしょうか。
とても大きな力を持ったお方が、罪深く弱く惨めな女に対して、生きがいと超能力を説いているのでしょうか。
しかし、それにしてもここでの主イエスは肉体的に弱い。
誰が見てもこの女性の生活、人生を変えるほどの力をお持ちだとは思えない。
むしろ、こんな状態の主イエスが、この女性が望むことを何一つ行わず、また、救いへ向けるべくこの女性を裁いてさえいません。
主イエスがなんの奇跡も行わずこの女性を救いへ導いたことが奇跡だといってもいいかもしれません。
誰かから主イエスの話を聞いて興味を持ったわけでも、信じたわけでもありません。
たしかに聖書記者ヨハネが描く、主イエスの業はすべて神の業であり、しるしであるといえます。

ここに、お前がこうしたなら、こうしてやる。
という条件はありません。
つまり、この女性の生活の変化は、主イエスとの出会いによる結果だということができます。
優位な位置にいたはずの女性は、いつしかもっとよい井戸がほしい、汲みに来なくてもいい、決して渇かない不思議な水がほしいと欲するのです。
この弱弱しい男の中に本当の命を見出し、今度は自分がその弱い男に求める位置に立つとき、自分が無限に欠けていて、満たしていただきたいと望むとき自体は一転するのです。
そこにこそ、神との和解があるのです。
和解のゆえに罪の赦しがあるのです。
そして、さらに深い神の愛を知ることができるのです。

この救いはどこから来るのでしょう。
カナの婚宴の時も、世話役は「どこから」を知りませんでした。
ニコデモも「どこから」を知りませんでした。
ですから、私たちはこの「どこから」に注目しなければなりません。
それは、神からであり、主イエスの十字架からです。
このとき、命の水が私たちの体の中を駆け巡り、沸き出でるのです。
この救いは壁を越えてやってくるのです。

私たちが壁の中に居続ているから受け取れない、と思ってしまったら受け取ることができません。
たとえ、壁を作ってしまっても、その壁を自分から越えて救いを得ようとするときそれを得ることができるのです。
そうすれば、必ず命の水を得ることができます。
まず、私たち自身が潤い、その大いなる恵みを多くの人たちと分かち合っていきましょう。
成田教会の更なる歩みの上に祝福と導きを願いつつ。

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