日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 喜びで満たされる 2009/2/1夕礼拝  使徒言行録14:8-20

<<   作成日時 : 2009/02/01 20:59   >>

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リストラで、
などと書かれていると、聖書にまでそんなことが書かれているのか。
などと嘆かわしくなってしまいますが、これは地名です。
口語訳聖書では「ルステラ」と表記されていました。

現在のトルコの首都アンカラから南に200kmぐらいのところにコニア・コンヤという人口61万人の都市があります。
第一次世界大戦中には独逸軍を呼び込んでの大きな戦いのあった所だそうです。
この町がイコニオンだと考えられています。
本日の箇所リストラは、そのイコニオンから更に南に40km の場所にある内陸の町です。
このあたりが「ガラテヤの信徒への手紙」のガラテヤ地方だと考えられています。
240kmというと成田から北に行って南相馬市、西に行って諏訪市くらいのところでしょうか。

パウロとバルナバが断食と祈りをもってアンティオキア教会から伝道に派遣され、先ず伝道したのがキプロス島でした。
それから船でベルゲに行き、こんどは山道を通ってピシディア州のアンティオキアに行きました。
最初は町の人に受け入れられたのですが、その町のユダヤ人たちがパウロとバルナバをねたみ始めました。
町の貴婦人たちやおもだった人々を扇動してパウロたちを迫害したので、二人は足の塵を払い落してイコニオンに行きました。
このイコニオンでは、パウロとバルナバがユダヤ人の会堂で話をすると、大勢のユダヤ人と異邦人が信仰に入ったと書かれています。
また、逆に信じようとしないユダヤ人たちは異邦人を扇動して二人に悪意を抱かせたというのです。
パウロとバルナバが伝道することによって町の人が二分されたのでした。
つまり、ユダヤ人でも信じた人と信じなった人、異邦人でも信じた人と信じなかった人がいたということです。
彼らを信じなかった人たちが石を投げつけようとしたのでパウロとバルナバは逃げ出したのです。

聖書の中にガラテヤ人への手紙という書もあります。
このガラテヤというのはイコニオンやリストラ地域を指しています。

このリストラでパウロたちが話していると多くの人たちが集まっていました。
めずらしい外国人が来たので好奇心もあったのでしょう。
そして足の不自由な人も連れてこられたようです。
あるいはパウロたちが足の不自由な男のそばで話し始めたのかもしれません。
パウロが語る福音を、熱心に聴いていたこの足の不自由な人はパウロの語るのを信じました。
その人は、ずっと座ったままの人でした。
何か大きなことが出来た人ではありませんし、この後特別のことをしたという記録もありません。
彼は、ただ福音を聞き、そこで語られているイエス・キリストによって救われるとの言葉を信じ、受け入れただけです。
特別なことをしていたのではありませんでした。
パウロが語るイエス・キリストなるお方は、不可能と思っていた自分の足をきっといやして下さるお方なのではと思いつつ、パウロの話を聴いていたのだと思います。
イエスさまによって与えられる救いにあずかりたいと求めただけです。
パウロは、ただ主イエスを信じ受け入れただけの人のことを、「癒されるにふさわしい信仰があると認めた」と語るのです。
癒され、救われるのにふさわしい信仰というのは、どんなものだったのでしょうか。

そしてパウロはこの人に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と声をかけました。するとこの人は立ち上がりました。
よろよろと立ち上がっただけでなく「躍り上がって歩き出した」と書いてあります。

パウロは、イエスさまが私たち罪人の罪の身代わりとして、十字架に付けられ、三日めに甦られたイエスさまを力強く証されたのだと思います。
足の不自由な男はパウロの話を聴いて、この方は死をも打ち破られた大いなるお方で自分の足をきっといやすことの出来るお方と信じたのだと思います。
だから、パウロの「まっすぐに立ちなさい」の声に躊躇することなく立ち上がったのだと思います。
もし、彼が自分の足は生まれつきのもので、到底直らないものとあきらめていたとしたら、彼に奇跡は起こらなかったでしょう。
彼は、自分の足で歩くことの幸せをかみ締めながら、希望に溢れた新たな人生を歩み出したのではないでしょうか?

「自立」といいます。自ら立つ、と書きます。
まっすぐ立つということは、一本ピーンと立つ、ということです。

これをみて群集は驚きました。
声を張り上げたと書いてあります。それも一人や二人でなく、群集が叫びだしたのですから騒然なりました。
そのうちに誰かが、それは神が私たちのところに来たに違いないと言い出して、それが口から口に伝わって広がってゆきます。 

だれかが神殿の祭司に知らせたのでしょうか。
祭司までがいけにえをささげようと牛を引いてやってきました。
1頭でなく、数頭引いてきて捧げたと書いてありますから、贅沢な献げものです。
かつてこの地方の町をゼウスとヘルメスが訪れたという伝説がありました。
人々はそのことを思い出して、神が来たのだからなんとかしてもてなさなくてはと思ったのでしょう。
神々に対して、丁重なもてなしをしないと、災いのときに守ってもらえないと考えたようです。
彼らの態度は、神さまに対する信頼からくるのではなく、恐れや不安からくるものでした。
つまり、この町で二人は迫害を受けるのではなく、神様にされそうになったのです。
神様に祀られようとしたとき、二人は服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、こう叫びました。
15節から17節はこのとき二人が語った言葉です。
 ≪「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れ て、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではあり ません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」≫
ここで二人が語ったことは私たちの心を打ちます。
まず、わたしたちは、あなたがたと同じ人間だと語るのです。
自分たちを神様に祀りあげようとする人々に、わたしたちはあなたがたと同じ人間だと、自分たちは神様ではないというのです。

荒井献という神学者の説教集に『人間が神にならないために』という説教があります。
その説教の中で、荒井先生はこう説いています。
「問題は、人があくまで人に留まり、人間らしくあることであり、人が神にならないことです。神が人になったのは人が神にならないためである、と言えるでありましょう。」
なるほどなぁ、と思いました。
つまり、神様が人となった、イエス様が私たちのところにおいでになったということは、人間が人間らしくあることであり、人が神にならないためだというのです。
パウロとバルナバは自分たちを神に祀ろうとしたのを必死になって止めました。
私たちの世界に、神様はイエス様を贈ってくださった。
それは、私たちが人間らしく生きるためであり、人間が神にならないためである。
私たちはあなたがたと同じ人間だ、分かってほしいというのです。
そして人間を神にすることは、偶像崇拝です。
偶像を離れて独り子を給うほど私たちを愛して下さった神様に立ち帰ろう、パウロとバルナバは福音を語っているのだというのです。


これは、私たちにとっての大きな慰めであり、希望の出来事です。
私たちは、自分の能力のあるなしや、働きの大小が気になって仕方のないときがありますが、そこに心を奪われ、救いの確信を見失う必要はありません。


そんな人々に対して「生ける神さまに立ち帰るように」と語られます。
生ける神さまは、人が供え物をしないと守ってくださらない神さまではありません。
すでに、たくさんの恵みを与えてくださり、様々な喜びを与えてくださった神さまです。
そして、すでにイエスさまによる真の救いを用意してくださった神さまです。 そこに、喜びと信頼を土台とした信仰生活が生まれます。
「生ける真の神さまと出会い、その神さまのもとで生きなさい」と、聖書は語りかけてきます。

パウロとバルナバは群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのをやっとやめさせることができました。
けれども19節と20節を見ますと、こう記されています。

持ち上げられたり、突き落とされたり、といった感じです。
そういえば、主イエスもそうでした。
ホザナと叫ばれ、喚起の中エルサレムに入った数日後には、十字架に付けろ!と同じ口に叫ばれました。
午前中に学んだ、洗礼者ヨハネも同様です。
身近で神を指し示すものほど、その恵みゆえに壮絶な死を遂げるのかもしれません。

彼らはこれだけのことがあってもなお逃げず、すなわち、石を投げつけられ、瀕死の重傷を負ったにもかかわらず、めげませんでした。
パウロは起き上がって町に入った。とあります。
わざわざその場に止まったのです。なぜでしょうか。
彼らはそうすることこそが主が喜ばれることであると確信していたからです。
そして彼ら自身も、そのような中にあってなお、喜びに満たされていたからです。
私たちも喜びに満たされて、この場から遣わされていきましょう。

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