日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 喜びで満たされる 2009/2/1 ヨハネ3:22-30

<<   作成日時 : 2009/02/01 12:24   >>

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イスラエルの国には主イエスが活躍される頃まで約四百年の間、預言者が起こりませんでした。
しかし、バプテスマのヨハネによって神のことばが、再び、人々に語られました。
時系列がぐちゃくちゃになりそうなので、すこし整理します。

洗礼者ヨハネは主イエスよりも少し早く生まれ、主イエスが公生涯と呼ばれる福音宣教の活動を始める前に、ヨルダン川でユダヤの民に洗礼を授けていました。
その場所はサリムに近いアイノンという場所です。
このサリムとは語源が「シャローム(平和)」であり、またアノンは「泉」という意味です。
預言者エリアが着ていたようならくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていました。
洗礼者ヨハネは、相手が誰であれ大胆に悔い改めを語りました。
ですから、それを聞いた人々は、もしかしたら、この人がメシア=キリストではないかと思ったほどでした。
実は、古代の多くの教会以外の歴史の記録によると、当時はヨハネ運動のほうが主イエスのなさった伝道よりも一般的には知られていたようです。


使徒言行録はこのヨハネ福音書の後に収められていますが、紀元62年頃の成立と考えられていますので、100年頃に書かれたヨハネ福音書より古いことになります。
その使徒言行録によると洗礼者ヨハネは領主ヘロデに捕まえられ、獄中で首を切られることになります。
ですから、このヨハネ福音書は洗礼者ヨハネが殉教した後、数十年たってかかれたことになります。

紀元70年のエルサレム陥落以降、ユダヤ教も衰退し
あれほど勢いのあったヨハネ活動も、文字通り衰えていきました。

この洗礼者のヨハネの印象があまりにも強かったので、人々はイエスを見て、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」(マルコ6:16)と考えたほどでした。
つまり、洗礼者ヨハネの生まれ変わりが主イエスだと考えたのです。
また、使徒の働きに「ヨハネのバプテスマ」しか知らない人々がいたと書かれています。(使徒18:25、19:2)
ヨハネの福音書が書かれた紀元100年ごろも、洗礼者ヨハネを特別な先生と仰ぎ、その教えに従う弟子たちがいたことも知られています。
こうしたことから、洗礼者ヨハネが、いかに多くの人に強烈な印象と影響を与えた人物であるかがわかります。
しかし、洗礼者ヨハネはいつも自分を主のしもべとして表わし、決して自分の分を越えることがありませんでした。
洗礼者ヨハネがどのように主に仕えたか、そのことを学びながら、私たちも、洗礼者ヨハネの模範にならいたく思います。


洗礼者ヨハネは偉大な人物でしたが、しかし、首尾一貫した主のしもべでありました。
ほんとうのしもべは決して人々の注目を自分に集めるようなことをしないで、自分の主人に栄誉を与えます。
ヨハネは、そんな意味でも、本物の主のしもべでした。

洗礼者ヨハネの弟子たちがヨハネに向かって「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」と言いました。
このことばを現代的に言えば、「ヨハネ先生、人々に悔い改めを説いたのは、先生なのに、みんなは、あなたの後から来たイエスのところに行ってしまって、先生の恩を忘れていますよね。あなたが紹介してやったイエスの方が人気があるなんて口惜しいじゃないですか。」とでもなるでしょうか。
「悔い改め」を説くことは誰の専売特許でもなかったのですが、別の人が同じようなことをしているのは面白くなかったのでしょう。
そこには、ヨハネの弟子たちのイエスに対する「ねたみ」のようなものを見ることができます。
弟子がその師のことを思うのはよいのですが、事態の真相を見極める心からでなく先生の立場を一方的に弁護しようとする、党派的みびいきと虚栄心から出ているように思われます。
聖書ではユダヤ人は「選民」として、神様から選ばれた民と書かれています。
そして、元々「洗礼」とは、他教徒がユダヤ教になるための儀式として行われていました。
その為ユダヤ人は「すでに清いわれわれユダヤ人が洗礼を受ける意味があるのか?」という疑問もありました。
しかしそんな疑問さえ吹き飛んでしまうほどの、吸引力を持ってヨハネは悔い改めを説き、洗礼を授けたのです。

ヨハネは冷静に、自分に与えられた天からの使命に目を向け、婚礼の主役とその友人の例をとって弟子たちに教えました。
そこにキリストの証人として、また道備えをする者としての彼の真骨頂が示されています。
弟子たちに、「あなたがたこそ、私がキリストでないことの証人になるのだ」(28節)と、弟子たちをたしなめています。
バプテスマのヨハネは、キリストは「ことば」であるが、自分は「声」にすぎないと言いました。
また、キリストは「まことの光」であるが、自分はやがて消えていく「ともしび」にすぎないと言いました。
そして、29節では、キリストは「花婿」だが、自分は「花婿の友人」にすぎないと言っているのです。

人は信仰によってキリストに導かれることによって、無限に意味のある人生が開かれてくるのです。
洗礼者ヨハネはヘロデに首を切られて非業の死をとげますが、キリストの道備えをしたその業は今も私共に向かって語りかけています。
時を越えて人から人へと継承されていくのです。

聖書はキリストが花婿であり、教会が花嫁であるというモデルとして語ります。
イエス・キリストを信じた者は、キリストによって、花嫁として選ばれ、花嫁として愛されているのです。
聖書は、やがて、イエス・キリストが花嫁を迎えるために天から来てくださる、その時、キリストを信じた者たちは、キリストのもとに集められ、天の「婚宴」にあずかることができると約束されています。
キリストの花嫁である教会は、そして、クリスチャンひとりびとりは、その日を待ち望んで、自らを清め、備えをする必要があります。

結婚式で人々の注目をあびるのは、花婿、花嫁です。
結婚式の時だけは、自分よりも身分の高い人の服を着てもよいというしきたりがありました。
しかし花婿や花婿の友人は新郎新婦より注目されてはいけません。
花嫁の友人が花嫁より華やかなドレスを着てはいけないのは、あたりまえのことです。
古今東西2000年の時を経てもそれは変わりません。
同じように、バプテスマのヨハネも、花婿であるキリストに、人々の注目が集められることを喜び、自分を「花婿の友だ」と呼んでいるのです。
私たちも、主のしもべとして、主があがめられることを願って主に仕えるのであって、自分が注目されることに心を寄せてはなりません。

また、主のしもべを尊敬するのはいいことですが、人をあまりにも高く置いて、私たちの主であるキリストに目を向けることを忘れてもいけません。

こんな話があります。
ある教会に宣教師の特別講師が来ることになりました。
その教会では、小学生の高学年から、大人といっしょに礼拝を守っていました。
この宣教師は、背が高く、ハンサムで、お話もとても面白く、その日の礼拝は、みんなが満足してそれぞれ家に帰っていきました。
帰りの車の中でお父さんが「きょうのお話は良かったね。」とおかあさんと話していました。
すると、うしろの座席に座っていた息子が言いました。
「ぼくたちの牧師先生は背が低くて、講壇のうしろの十字架が、いつも良く見えるのに、今日の先生は背が高かったので十字架が隠れてよく見えなかったね。」そのことばにおとうさんははっとしました。
おとうさんは「私たちは、先生のお話を楽しんだだけで、ほんとうに神のことば、十字架のことばに耳を傾けなかったのではないか」と反省したというのです。

私たち説教者は、主を、主の十字架を隠すような奉仕をしてはならず、また、人を見て主を見ないということがあってはならないのです。

ヨハネは、「キリストは盛んになり、私は衰えなければならない」と言った。キリストと正しい関係にあり、自分のなすべき分をわきまえている人は、謙遜なへりくだった心が与えられる。イエスは、「わたしは心優しくへりくだっているから、わたしのくびきを負って学びなさい。そうすれば魂に安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と言われた。キリストは仕える者の姿をとられ、十字架の死にまでも従われた。それゆえ、神はキリストを高く上げられ、全てにまさる名をお与えになった。悪魔は高ぶり、自分の分を越えて裁かれ、永遠の火の池に投げ込まれる。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる。自分のなすべきことを、へりくだって忠実に行なう者とされよう。キリストは天より来られ、見たこと聞いたことを証しされ、無限の御霊を与えられて神の言葉を話された。父なる神はキリスト愛され、万物をお渡しになった。神によって新生した私たちは、豊かに御霊を受けて神を体験し、キリストを証しし、キリストの権威を用いる者になろう。キリストを今信じている者は、永遠のいのちをもつが、キリストに聞き従わない者は、神の怒りがその上にとどまる。

洗礼者ヨハネがほんとうの主のしもべであったことは「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(30節)との言葉に良くあらわれています。
しもべというものは、主人に割り当てられた仕事をし、自分の仕事に不満を言ったり、分を越えて勝手なことしたりしないものです。
そんな意味でもヨハネは、主のしもべとして自分の分を果たしました。
ヨハネの働きは、人々にイエス・キリストを示すことであり、それが彼の仕事のすべてでした。
彼の仕事はイエスの働きのために道を開くことであり、ヨハネには、自分の始めたことを完成させることが許されず、それはイエスにゆだねなければなりませんでした。
ヨハネの後、イエスが現れ、弟子をあつめ、教えをはじめられた時、ヨハネの仕事は終わったのです。
イエスの働きが栄えていくにつれて、彼の役割はおとろえていきました。
なんだか損な役まわりですが、しかし、ヨハネはそれを自分の使命として受け止めました。

結果的にヨハネの働きはほんのわずかの短いもので、やがて消え去っていくものでした。
しかし、神の目には、ヨハネは、他の誰も代わることのできない、偉大な働きをしました。
主イエスは洗礼者ヨハネのことを「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と褒めておられるのです。

主のしもべには、忠誠が求められ、謙遜が求められ、服従が求められ、さらに犠牲さえも要求されます。
信仰の道は、あまりにも基準が高く、だれもキリストには従いきれないように見えます。
そして、主のしもべとして生きることは、何の喜びもなく、歯を食いしばって忍耐するだけのもののように見えます。
しかし、実際はそうではありません。
主がいつも共にいて助けてくださり、聖書が「喜びをもって主に仕えよ」と教えているように、私たちは主からの喜びをいただけるのです。
イエスはたとえ話の中で、主のしもべの特権は主とともに喜ぶことだと言っておられます。
それはマタイ25章にある「タラントのたとえ」の中にあります。
このたとえ話の中で主人から五タラントを任せられたしもべはもう五タラントもうけ、二タラントのしもべも、もう二タラントもうけるのです。
それぞれもうけた分を持っていくと、主人はしもべに何と言いましたか。そう、主人はこのふたりに「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」と言いました。そして、主人はつけ加えます。
「主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21,23)このしもべたちの本当の報いは、目に見えるタラントだけでく、主人の喜びであったように、主も、主に仕えるしもべたちに、主のよろこびを分け与えてくださるのです。

たとえ私たちの肉の目において小さなことであったとしても、主の御名があがめられるために役だったなら、
誰かが救われるために助けになったなら、
誰かの信仰を励ますことができたなら、
主はそれを喜んでくださいます。
それと同時に私たちも、そのことのゆえに、主と共に喜ぶことができるのです。
洗礼者ヨハネは「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」(29節)と言っています。
主のしもべのしるしは、この喜びにあります。
ヨハネは主のしもべとしてこの喜びを持っていました。
この喜びをもって主に仕えていました。
主のために役立ったという喜びは、この世のどんなものを得たよりも深い喜びです。
実際にそれを味わったことのある皆さんなら、良くお分かりになると思います。
私たちの主イエスも、同じ喜びをもって父なる神に仕えました。
主は、どの人もかつて通ったことのないような苦難の道を歩まれました。
神の子であるのにさげすまれ、救い主であるのに斥けられ、正しい人であるのに罪を背負わされ、愛の人であるのに人に憎まれました。
しかし、イエスはその苦しい十字架の道を、喜びを持って歩まれたのです。
聖書は言っています。
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試煉を、何かおもいがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」(ぺテロ第一、4:12-13)
洗礼者ヨハネが「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言ったのは、やせがまんでも開き直りでもありません。
それは本物の喜びでした。

花嫁の友、ヨハネの言葉を聞いて綴った福音書記者は、この後15章11節以下の主イエスの言葉を重ねているのだと思います。
これは、私の話である、誰の話でもない。
私は主イエスの友であり、こんな私のために主は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とおっしゃって死んでくださる。
われわれ人間はみなやがて衰える、そんな人間をも主イエスは友と呼び愛してくださるということを知るとき、私たちは喜びに満ち溢れるのです。
主は、もはや私たちをしもべとは呼ばず、友と呼んでくださる。
あなたが私を選んだのではない、私があなた方を選んだのだと。

洗礼者ヨハネは主イエスの働きがこの後実を結んでいき、人々が彼のもとに集まっていることを喜んだのです。
私たちも、主のしもべとして仕え、友として愛されているこの喜びを豊かに味わせていただきましょう。



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