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zoom RSS 唯一信じうるもの ヨハネ3:16 2009/01/18

<<   作成日時 : 2009/01/18 13:09   >>

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ヨハネ3:16



本日の聖書箇所は「黄金の言葉」と呼ばれています。
実は本日はもう少し先の節までを予定しておりましたが、このたった1節に絞って丁寧に見てまいりたいとおもいます。
先週の週報の予定にありました21節までは来週学びたいと思います。

こんなに厚い聖書の中で、これほど簡潔に神の愛を示す御言葉ないからです。
福音のミニチュアだと表現されます。
ヨーロッパの教会では、この御言葉を礼拝堂の壁に金色の文字で刻んでいる教会が時々あるそうです。
それほど光り輝くような御言葉、世界中のキリスト者が愛している御言葉だといえます。


まず「神は」と今週のみ言葉は始まります。
当然ながら主語が神さま、「私たちは」と言っているのではありません。
実はこのことは実はとても大切なことです。
日本語は主語がはっきりしない言語だといわれます。
ですから、忠実に原文に沿ってみていくと、救いの主人公は神さまであるということであります。
私たちが主人公なのではありません、神さまが主人公だということです。
私たちは自分の視点からしかものを見ることしかできないので、どうしても自分中心に考えてしまいます。
世の中はたいていそれでもとおるのですが、しかし救いに関してはそうではないということが示されています。
私たちが救われるということは、私たち側からの問題ではなく、神さまがなさることだということです。
当たり前のようですが私たちを救うのは神さまなのです。神さまの業なのです。

その神さまというのは、聖書では、真の神さまです。
天地宇宙を造られた神さまです。
そういう神さまが確かにおられるのです。
偉大な神、無限の大きさを持つ神さまです。
そんな神様が、私自身の救いのために働かれる、ということです。

つぎに「世を愛された。」
神さまは、私たち人間には到底できない方法で「世を愛された」と述べられています。
「世」というのはこの世界のことです。
原文のギリシャ語では「コスモス」という言葉です。
英語では、宇宙・世界と訳されますが、同時に「人の世界」ということをあらわします。
つまり神さまは、自分が創ったこの世界、そして、私たち人間の住んでいるこの世界を愛された、ということです。
この世を愛しておられるのです。
これは意外なことのように思えます。
なぜなら人間の住むこの世が、どんなに不正や混乱や争い、ねたみや憎しみと暴力で満ちているかということを私たちは知っているからです。
そしてそのことは、旧約聖書に記されているイスラエルをめぐる歴史を見ても分かります。

人間は何度失敗しても懲りずに罪を犯し続けました。
神さまに罰を与えられ、立ち返っても、また背き続ける人間の姿が聖書には繰り返し書かれているのです。
にもかかわらず人間は全く進歩しない。同じ過ちを犯し続けるのです。
私たちの身の回りを見てもそうです。
毎日を憂うつにさせるような罪や悪で満ちています。
人間社会は何千年も同じ過ちを繰り返し、愛がなく、神さまに背き続けているのです。
いやこの自分自身を見ても同じです。
自分で自分が嫌になるほど、不信仰で、感謝よりも不平不満が先立ってしまう。そして、いつしか神さまを忘れてしまう。
しかしここで言われていることは、天地の造り主である神さまは、そんなこの人間の世を愛されたということなのです。
お見捨てにならないというのです。
愛されたのです。
信じがたいことですがこの憎むべき世を愛されたのです。

世界大戦時代のドイツの神学者ボンヘッファーはこういいます。
そもそも神は世を愛す必要などはなかった。
神にそむき、神から離れようとしている人間、そんな人間を、この世など見捨ててもよかったのだと。
神に見放されても人間は文句を言えなかった。
まさに救いようもない人間なのです。
しかし神はそうされませんでした。

それは同時に、このわたしたち自身をも神さまは愛されているということです。そこには例外がありません。
神さまは、「あの人は愛するが、この私は愛されていない」などということはありません。
ボンヘッファーはさらにこういいます。
キリストは自分にとって、あだ敵のためにも死なれた。
もし私が自分の憎むべき敵のためにも、御子が与えられているのだということを信じなければ、私もまたこの神の愛から堕ちる。
イスラエルを愛された、でも、アメリカを愛されたのでもありません。
それが「世を愛された」ということです。
だれもお見捨てになっていないのです。

その独り子をお与えになったほどに
「神の愛などということは作り話だ、どこにその証拠があるのか?」とおっしゃる方もいるかもしれません。
そして、確かに証拠がある、と言っているのが日本語では今の言葉に挟まったところにある、「その独り子をお与えになったほどに」という言葉です。

神さまがご自分の独り子をお与えになった、そのことが神の愛を証ししているということです。
「独り子」とは誰のことでしょうか?
それが他ならぬ、イエスさまのことです。
私たちは、あのクリスマスの夜の不思議に思いをめぐらすことができるでしょう。
母マリアの胎に宿り、二千年前のあの夜、ベツレヘムの馬小屋の中でお生まれになったイエスさま。
赤ちゃんとして、人の子として来られた神の御子。
それは全く無防備な姿です。
生かすも殺すも人間次第という、全く無謀な出来事でした。
マリアが決心しなければ、ヨセフが愛し育てなければ、怪我や病気にもならず主は時を迎えることができました。
神さまは、そのように、まさに独り子を「お与えになった」のです。
罪深い人間に自らの一人子をおあたえになるのです。

全地宇宙の造り主であられる神さまが、たったお一人しかいない我が子をこの罪人の集まりである私たちのところにお与えになった。
それが神の愛を証ししているというのです。
そして人間は、神さまがくださった独り子イエスさまを、十字架につけてしまう。
そのこともご承知の上で、神さまは独り子イエスさまをお与えになった。
それほど、「世を愛された」というのです。
そうして私たちに救いの道をお開きになった。
なぜそんなことをされたかと言えば、愛というものは、悪い者を悪いままに放っておくことができないからです。
「愛」の反対は「無関心」であるとマザーテレサは言いました。
麻生総理も同じように言いました。
神さまは、悪で満ちてしまったこの人間の世界をすべて滅ぼしておしまいになることはありません。
と言って、無関心に放っておかれるのでもないのです。
だから、大切な独り子をお与えになるという決断をされたのです。

この御言葉は大変わかりやすいがゆえに、有名であり黄金の成句だといわれます。
神の愛は、その独り子を私たちに与えてくださるほどのものだった、
自分の子供が傷つくことは、自分自身が傷つくよりも辛いことです。
アブラハムがイサクをささげた苦渋を私たちは想像します。
これは、私たち普通の人には考えられない、耐えられない犠牲的な愛であるといえます。
子供に腐った水やスポーツドリンクを注射して殺してしまうなどというニュースを見ると、理解に苦しむだけでなく、同じ人間として、親として悲しい思いになります。
この成句のようにわかりやすい言葉は、初心者向け、と考えられやすいのですが、
決してそうではありません。
はじめて御言葉に接した人にさえ響く御言葉は、何十年も教会生活をしてきた人にとっても同様でなければなりません。
このヨハネ3:16は十分すぎるほど読み、味わい、説教も聞いてきたので卒業。
もっと別の箇所で、深い意味の箇所を口ずさむべきという誘惑に陥ります。
確かに聖書には光り輝く御言葉がたくさんあります。
もちろんどの箇所を好むのかは個人の自由です。
しかしこの箇所ほど、神様の愛を明確に伝える箇所はありません。


信じる
神がそのように私たちを愛しておられます。
しかも最も大切な独り子を差し出すほどに愛しておられる。
その独り子イエスさまによって救いの手を差し伸べておられるというのです。
その神さまの愛に応える、応答することが、「信じる」ということです。
神さまの御心に背いたのですから、本当は滅んで、死んで、永遠の闇に消えていっても何も文句は言えないはずの私たちです。
しかし神さまは愛であるがゆえに、その私たちが滅んでいくことを見るに忍びないで、最も大切な独り子を与えて下さった。
その神の愛に応えるのが、「信じる」ということです。
神さまが独り子イエスさまによって、水の中で溺れて沈んでいこうとしている私たちに、救いの手を差し伸べて下さっている。
差し伸べて下さったそのイエスさまの手を、つかむ。
あとはイエスさまが引き上げて下さるのです。
それが「信じる」ということです。

皆さん、私はきょうのところの説教をするために、そしてその神の愛を分かりやすくたとえるために、いろいろな例話を用意しようとしました。
どの注解書を見ても、説教集を見てもこの箇所はありました。
しかしいろいろ考えているうちに、どの例話も、神の愛を説明するためには不十分で足りないように思われました。
どんな言葉を尽くしても、私は神の愛の大きさを十分言葉にする事ができません。
神の愛に比べると人間の愛は小さすぎて、十分に説明することが不可能だと思います。
それでこのまま申し上げることにしました。
後はわたしたち自身が、神の愛に応えて、それを信じていく中で分かっていくことです。

私たち人間は、大切な我が子をお与えになるということ以上の愛を考えることができるでしょうか。
内村鑑三は、このところで「子を捨つるはおのれを捨つるよりも難し。まして独り子をや」と述べています。
「我が子を捨てるのは、自分を捨てるよりも難しい。間して独り子を捨てることなどできるだろうか」と。
私たちは、凶悪な犯罪者から銃を突きつけられ、「命が惜しければ金を出せ」とドラマのように言われれば、お金を出すでしょう。
全財産を差し出すことでしょう。
しかし、「お前の子供をお前の代わりに殺す」と言われれば、子供の代わりに自分の命をと言うでしょう。
しかし神は、それをなさったのです。
自分を与えるよりも難しいこと、我が独り子をお与えになったのだと。
そして与えられた側の人間は、そのことを悟ることができず、ついにそのイエスさまを十字架にかけて殺してしまう。
しかしまさにそのことによって、神は私たちを救おうとされました。
独り子の命と引き替えに私たちを救われる。
これが神の愛の証しです。
それゆえ私たちが目にしている十字架は、神の愛の結晶なのです。
そもそも神さまは天地宇宙の造り主であり、全能なる方ですから、独り子をお与えになる必要などなく、ノアの洪水の時のように、すべて人間を滅ぼしてしまうこともおできになったはずです。
しかし神はそうはなさいませんでした。
何故か?‥‥それが私たちを愛しておられるからだというのです。

     
大切なことは、神は愛であるということです。
宇宙の造り主である神さまが、私たちを愛しておられるということです。
イエスさまをくださっているということです。

「一人も滅びる」ことがないように、全てのものが永遠の命を得るために、神ご自身がその身を引き裂いてくださいました。
「渇いている者には、命の水の泉から 価なしに飲ませよう。」(ヨハネ黙示録21章6節)。
価なしに、無条件にただ信じる者に神の豊かな命の泉から、命の水を飲ませると約束されるのです。
私たちは、人生の中で何度も渇きを経験することがあります。
人間関係のゆがみの中で、心が渇ききるということがあります。
病や様々の問題の中で、激しい心の渇きを覚えて苦しみ、絶望することがあります。
そのようなあらゆる困難なときにさえ、罪の赦しとさらに私たちの心の渇きを癒す為に、主は存在をかけ、身を引き裂いて愛し働いてくださったのです。
キリストの十字架の中に、その全存在をかけて、身を引き裂いて愛してくださる神の愛が、強烈にしめされているのです。

神さまがこの世を愛してくださっているということです。
お見捨てになっていないということです。
そこにこの世界の救いの希望もあるのです。
この混乱した世の中についても、神さまはお見捨てになっていません。
私たちを導かれたように、日々導いておられるのです。
私たちはただただ感謝するほかありません。

私たちはこの御言葉を十分に心に留め、日々繰り返し、喜びと感謝に満たされていくことができますように。

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