日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 新しく生まれ変わる 2009/1/11 ヨハネ3:1-15

<<   作成日時 : 2009/01/11 13:39   >>

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早いもので、もう2009年も明けて10日が過ぎました。
あっという間に現実の中に引き戻されて、もうすっかり松の内気分ではないという方も多いことでしょう。
半分お正月の気分ですが、また世の中は連休です。
昨年一年間は、さまざまな意味で激動の一年であったかと思います。


最初の半年ほどは好景気のただ中で、誰もが楽天的でした。
春には特定財源の関係でころころとガソリンが上がったり、下がったり…。
ガソリンは秋にはどこまで上り詰めるのだろうかと思うほど値上がりし、思いもよらない円高で、また一気に下がり…。
円高は旅行業や輸入産業は好景気をもたらし、輸出中心の業界はみぞうの事態に陥りました。
食品の偽装問題があり、派遣社員による理不尽な無差別殺人や凶悪犯罪がありました。
今までタブーとされてきた新卒の採用取り消しが一気に行われ、派遣社員の契約途中解約が大々的に行われました。
これらはいままであまり表面に出なかっただけで少なからず起こっていたことです。
その様相は、まるで飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているようでした。(マタイ9:36)

年が2009年に改まったと言って、現実は全く変わらないでしょう。
今年も昨年に続いてそんな行き場のない不安が続くのでしょう。
わたしたちは、そのような世界の現実、人間の実態の世の中で生きなければなりません。
しかしわたしたちはこの世界の暗い現実だけを見て生きるのではありません。
この世界が、わたしたちが見るべきもののすべてではなく、神の臨在を知っています。
わたしたちは「神を見つつインマヌエルの神とともにこの世を旅する」者だからです。


さて、新約聖書には4つの福音書が収められています。
そのうちマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書の3つの福音書は「共観福音書」と呼ばれています。
これら共観福音書は目に見える世界を表しているのに対し、ヨハネの福音書は、霊的世界が表されていると言われます。
ヨハネ福音書は哲学的だ。などと言われます。
「哲学」などというとなんだか高尚な読み物で自分とは直接関係ないような印象を受けられるかもしれませんが、実はそうではありません。

先週のお話の続きになりますが、このヨハネ福音書の中に、イエス・キリストを信じる二通りの道が記されています。
一つめの道は、イエス様によってなされたしるしを見て信じる道です。
この「しるし」はヘブル語では「奇跡」、ギリシャ語では「徴表ちょうひょう」を意味します。
ヨハネの福音書には、この「しるし」という言葉が17回も出て来ます。
主はカナの婚礼で行われた最初の奇跡をはじめ、様々な奇跡の御わざを成し、死んだラザロを生き返らせるほどの奇跡まで行われました。
そのような奇跡を目撃し、体験した人々の多くはイエス様を信じました。
もし仮に、この私になんでもかなえることのできる力があったら、みなさんはどうなさるでしょうか。
自分自身の痛みをとったり、病気を治したり、知人を連れてきてその悩みを解決したりするでしょう。
あるいは私自身をマネージメントして一儲けしようと思われるかもしれません。
しかし、イエス様はそうではありませんでした。
しるしによる感動は一時的であり、瞬間的にわいた感情はいつか冷めてしまうのを、イエス様は充分知っておられたからです。

本日の登場人物のニコデモという人はヨハネ福音書にだけ3回登場します。
最初にニコデモは新しく生まれるということはどういうことかと言うことで主イエスに質問しました。
次は7:45からの記事で、ファリサイ派の人たちの主イエスへの批判に対して、イエスを庇ってファリサイ派の人たちを諫めました。
ニコデモはファリサイ派の指導者でありながらイエスの行動や思想を理解し、親近感を持っていました。
最後は19:38からの記事で、ニコデモはアリマタヤのヨセフと一緒にイエスのために没薬と沈香を混ぜたものを持ってイエスの遺体を引き取りに来ました。
ニコデモはイエスの弟子でもないのにイエスの遺体を引き取りにくるほどイエスに魅せられ関心を寄せていたのです。
ニコデモはファリサイ派の指導者で、ユダヤ教の代表の一人として最高議決機関サンヘドリンの議員、国会議員でした。
ユダヤの国会であるサンヘドリンは71人の議員で構成され、立法だけでなく、民事、刑事の裁判を行い宗教裁判をも行ったユダヤの最高の機関でした。
ニコデモはこの後キリスト教徒となり、ユダヤ人に殺されて殉教したと伝えられています。
主イエスを取り巻いていた人々は職業的にも経済的にも中流、下層階級の人がほとんどでした。
主イエスの使徒となった弟子達はほとんどガリラヤの農民や漁民で普通の一般 庶民でした。
ニコデモはパリサイ派を代表する知識人で、イエスの取り巻きとしては異色の存在でありながらイエスを尊敬しイエスを信じたのです。
そのようなニコデモは主イエスの何を信じたのでしょうか。
ニコデモはそこでイエス行った数々のしるしを見てイエスを信じました。
まず2:13からの主イエスがエルサレムに滞在中に神殿で行ったしるしの一つは宮清めでした。
神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと座って両替している商人たちを「神殿は父である神の家であり祈りの家である」と言って強く非難し追い出しました。
この箇所からは、受難週にともに学びたいと思いますので楽しみにお待ちください。

その宮清めの出来事はユダヤ人社会に衝撃を与えました。
ニコデモも主イエスの宮清めの行為を大きなショックを受けたはずです。
主イエスの中に今までのユダヤ教の中になかった全く新鮮なものを感じ、信じるようになったのだと思われます。
ニコデモは主イエスに「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことはできないからです。」と言っています。
「モーセのような預言者」として表現しているように、ニコデモはイエスを救い主として信じると云うよりは主イエスを一人の予言者、教師として尊敬していたのだとおもいます。
主イエスの時代ユダヤ人達はモーセのような預言者は奇跡を行う者と見なされ、人々はモーセのような預言者の再来を期待していたのです。
ニコデモは他のユダヤ人と同じように主イエスにモーセの再来を期待していたのにとどまるのです。

ニコデモは神の国に入る条件として「新たに生まれる」と言うことを「人間の知識、人間中心の常識」の延長線上で考え、再度母の胎内に入ることと考えたのです。
このようなニコデモに対して主イエスは「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。

主イエスはニコデモの信仰は、本当の意味で生まれ変わっていない、それでは神の国を見ることはできない、神の国に入ることはできないと言うのです。
われわれの眼からすれば、ガチガチの律法主義的なユダヤ人が主イエスを受け入れているだけですごいことだと思います。
しかし、主イエスはもっと厳しい目でニコデモを見るのです。
ニコデモはイエスをモーセのようなイスラエルの偉大な預言者の再来による救いを期待しています。
しかし、それでは生まれ変わっていない、それでは神の国を見ることは出来ないと主イエスはおっしゃるのです。

ヨハネ福音書が書かれた時代はキリスト教徒がユダヤ教の教会から追い払われ、迫害された時代です。
キリスト教徒は元々ユダヤ教徒であり、ユダヤ教の一つの集団、一派としてユダヤ教のシナゴークで礼拝や集会を行っていました。
しかしユダヤ教とは似て異なる宗教であることが判ってくるとシナゴーグから追い出され迫害されるようになりました。
キリスト教徒はユダヤ教から迫害され、ユダヤ教会の会堂から追い出されてユダヤ教とは別の宗教として出発するのです。
ヨハネ福音書の記者は光 と闇、昼と夜、霊と肉という言葉を使って記述しているが、記者はユダヤ教を律法主義、闇の世界のもの、肉に属するもの、人間を中心においた考えとして描いています。
ユダヤ教は律法を守ることによって救われるという律法主義であり、主イエスの宣教した救い、福音とは真っ向から対立する考えです。

それに対してイエスは「はっきり言っておく。誰でも、水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」とお示しになりました。
わかったようなわからないような、とんちや問答のような気がします。
しかし、神の国に入るには霊によって生まれ変わらなければならないというヒントを与えてくださるのです。
「新たに生まれる」という基準が、視点が私たちが理解と違っているのです。
人間の考え、人間の知識、常識ではなく、神の基準による「新たなる生まれ変わり」をという事は上から、神の側から根本的に生まれ変わらなければならないということに他なりません。
この新しい創造の経験をしなければ神の国にはいることは出来ないということです。
根本的に生まれ変わるということは、うわべだけでない内面から変えられなければなりません。
内面を変えるのは自分自身では変えられないと云って主イエスはこのニコデモの信仰、考え方を「肉」の考え方、人間的な考え方として否定されたのです。

モーセは荒野で食糧が尽きた時に神に祈ってマナを降らせイスラエルの民を救いました。
しかし主イエスはご自身がいのちのマナであると言われました。
ニコデモは主イエスをモーセのような奇跡をおこなってエジプトからイスラエルの民を救い出した偉大な指導者の一人と見ていたのです。
主イエスを自分の救い主キリストと告白できる者、それが「霊から生まれた者は霊である」という意味だと思います。
主イエスをモーセのような預言者と見る信仰は肉の見方、人間を中心とした見方でしかありません。
今までの自分の理解、知識、経験では神を知ることはできないのです。

日本ではキリスト教の思想や考えが多くの人に知られています。
多くに人がキリスト教に関心を示し、一度は教会を訪れ礼拝に参加するが長続きしない。
信仰を告白して洗礼を受けてもいつの間にか教会を離れてしまう人も少なくありません。
その理由の一つは信仰の理解の仕方にあり、ニコデモ型の信仰理解に留まってしまうからではないでしょうか。
日本人は高い教育を受け多くの科学的な知識を持っています。
この知識中心、人間中心の考え方に主イエスの福音を当てはめ理解しようとしてしまいす。
公共放送であるNHKも文部科学省も進化論が正しいことだと教え続けます。
宗教を生活習慣、しきたりのように利用しているだけで実際は何も信じていない、
信じるものは自分だけという認識を植えつけるのです。
イエスはニコデモに対して「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とおっしゃいました。
「新たに生まれなければ」と言うことは根本的に変わらなければと云う意味です。
根本的に変わると云うことは自分ではできません。
上から外から変えられなければ変わる事はできないのです。

「もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか」
というニコデモの言い分もわかります。
本当のことを言えば、このことですら神様にはおできになります。
神様は私たちにこの意思を求められるのです。
それをイエスは「生まれ変わる」とおっしゃったのです。
このイエスのニコデモへの問いは私たちにも問われています。

昨年1年間を表す漢字は「変」でした。
アメリカの新しい大統領が選ばれ「CHANGE」を掲げました。
確かに国内においても1年の中でもこんなにも変わった一年はなかったかもしれません。
主イエスは、霊によって根本から変えられるようにと私たちに問うのです。


キリストを信じると言いながら実は霊によって生まれ変わっていない、肉による理解、神中心でなく人間中心信仰理解でイエスの福音を理解してしまう可能性が常にあります。

信仰は個人個人一人のものであると同時に教会と云う信仰共同体によって育まれ、強めれら、継承されていくものです。
一人で聖書を読み祈ることは大切です。
キリストを頭とする教会、信仰共同体の中で、共に聖書を読み、祷りを共にすることによって信仰が強められ養われると言うこと確認し、教会の交わりを大切にしていきたい。
だから神に呼び出され、ともに集い、祈りと賛美をささげる必要があります。
共同体として、神に召され、一歩一歩、一日一日、一年一年新しくされて天の御国に向けて歩んでまいりたいと願います。

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