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zoom RSS 私たちの責任 2009/01/01  元日礼拝

<<   作成日時 : 2009/01/01 15:55   >>

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ルカ1:26−38
使徒16:25−34
Uコリント5:13-18


新年あけましておめでとうございます。
準備に当たりまして「新しい」というキーワードで聖書をくくっておりましたら、
「キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とパウロがコリントの手紙Uの中で、語った言葉が示されました。
パウロはこの恵みがすでに全ての神の子たちに約束されていることを力強く伝えたかったのだと思います。
そしてそれと共に、その恵みに留まり続ける「私たちの責任」も説いていることに注目したいのです。
では「私たちの責任」とは何でしょうか?
それは「キリストと結ばれている」ということであります。
結ばれると言うことは、一瞬だけ、ほんの少しの間だけ交わると言うことではありません。
ちょこんと引っかかると言うことでもありません。
絡みつく罪から離れて、しっかりと結び合わされるということです。
よく使う言葉では、「ぶどうの木であるキリストにつながり続ける」ということです。
そうすれば必ず変えられ、成長させられ、新しくされる。
そのようにして実を結ぶからであります。
そして、「私たちの」というのは、もちろん「私の」ではありますが、それだけでなく「私を含めた他者」の責任であると言うことです。
ですから、今年も、《キリストにつながり続ける》ことを大切に信仰生活を送っていきたいと思うのです。

私たちがキリストにつながり続けるために、神様が与えてくださっている《具体的なつながり方》を、皆さんと学んでまいりたいと思います。

まだ降誕節ですので、御言葉はクリスマスの記事から取り次いでまいります。
「マリアの献身の言葉」であります。
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』」
ご存知のように、聖書は「疑ってはいけない」とは言いません。
「信じなさい」と言うのです。
この時のマリアも十分疑っていました。
「どうして、そのようなことがありえましょうか」という言葉は、「そんなことあり得ない」という意味です。
疑う理由としては「わたしは男の人を知りませんのに」です。
疑う余地があるのです。
いいえ、そんなことはありえないのです。
ありえないことをどう信じたらいいというのでしょう。
マリアは、十分疑った上で、不安に悩んだ上で神の御心にゆだねるという決断をするのです。
私たちはこの決断に感謝しなければなりません。
マリアが献身的に神の言葉に従ったからこそ、救い主は誕生し、育てられ私たちは今日救いにあずかることができるのです。
そして、最終的に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白しているのです。

信仰とは、最後は飛び込むことだ、ということを言われます。
冒険をすることだといいます。
本当にいいのだろうか、と思い悩むのです。
悩まない信仰は、逆に薄っぺらでもろいものかもしれません。


先週の学びの中で、主の奇跡を信じられないならば主の救いは信じられない、と申し上げました。
私はひねくれ者ですから、聖書ですらうがった読み方をします。
この奇跡にはなにかトリックがあるのではないか、科学で立証できるのではないか、これはこういうカラクリがある、と疑います。
しかし、実際にそれを裏付けられるものは何一つありません。

それは、使途の働きを読むとパウロとシラスとがフィリピで宣教をしていて投獄された記事があります。
牢屋につながれているとき、本当に不思議な出来事が起こりました。
そして、牢屋の看守が主を信じる決心に導かれていきました。
その時、その看守に語った言葉です。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。
看守はこの約束の言葉を信じたのです。
そしてパウロとシラスを自分の家に招きました。
家族が福音を聞く機会を具体的に作っていったのであります。
そして、その結果、自らと家族全員が洗礼へと導かれていきました。

先ほど私は、マリアが「信仰の冒険」をした結果、彼女たちを通して、神様の喜び、神様の救いの喜びが、他の人々のものとなる道が開かれました。
マリアの信仰による選択が私たちの救いと大いに関係した、とお話しました。
この言葉は、そのまま私たちにも当てはまります。
この看守は家族の救いを本当に願って、パウロとシラスを家に招きました。
家族が福音を聞く機会を提供したということです。
このことが私たちにとっては何を意味するかを考え、祈り、具体的に次の1歩を歩み出すことに他なりません。
このことが、この時の看守にとっての、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」 という祈りです。
自らを主のご計画に委ねる「信仰の冒険」だと言えます。
そして、私たちもこの新しい年、マリアを初めとする信仰の先輩方に続き、心から「お言葉どおり、この身になりますように」と祈り、願う者として自らを主に捧げたいと願うのであります。
そしてこうした「信仰の冒険」に促される出来事が具体的に起こるのが礼拝の時であり、御言葉と祈りに生きる時であります。

1年の計は元旦にあり、と申します。
元旦とは1月1日の午前中を差しますので、もうすでに元旦ではなくなってしまいましたが、
私たち日本人にとってはとても大切な日です。
この日を礼拝によって始められることはとても意義深いことです。
今年も主のみ声に従う1年でありますように。

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