日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神の徴 2008/12/28 ヨハネ2:1-14

<<   作成日時 : 2008/12/28 14:13   >>

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今日は、2008年の最後の主日礼拝です。
今年も毎週、礼拝が守られましたことを感謝致します。
この一年間、私たちの信仰生活に大きな変化がありました。
1年前にはこのような年末が迎えられると想像できませんでした。
神様の不思議が導きが私にも、皆さんにもありました。
教会の全ての働きが、神様によって守られましたことを覚え、感謝したいと思います。
一年は、一日一日の積み重ねです。
週報にエマオへ道が記されていますが、あんなに厚い本も毎日1ページずつ読むと1年で読み終えることができます。

私たちは、この一年間の一日一日をどのように歩んで来たでしょうか。
聖書には、「すべての事について、感謝しなさい。」と書いてあります。
週報にも記しています。
私たちの周りを見ると、またこの一年間を見ると、感謝することは山ほどあるように思います。
一日の目覚めに感謝し、新しい一日が与えられたことを感謝する。
神様の守りと祝福に信頼する。
食事の前に、学校や会社で感謝する。
妻や夫に感謝し、子どもに親に感謝する。
上司に部下に感謝する。
感謝の心は、いつも私たちの心に平安を与えてくれるように思います。
そして、周りの人々にも、良い変化を与えることができるように思います。
皆さんは、この一年間、感謝の年だったでしょうか。
この一年、それが困難や苦しみが多かった一年であったとしても、そこには神様の守りが、支えがあったことを思います。
ですから、私たちは、この年の最後の礼拝において、この一年間、私たちを守り、支え、導かれた神様に心からの感謝を表したいと思います。

さて、今日のみ言葉は「カナの婚礼」と呼ばれる有名な聖書箇所です。
今回学んでみてとても興味深い箇所でした。
いくつかの疑問がわいてきました。
注解書を読んでも、原典を当たっても正解は出ないかもしれません。
あるいは前に行き着いた結論と違う見解に落ち着くこともあります。
これだから聖書を読むのが面白いのです。尽きることがない。

さて、イエスは最初のしるしをカナの婚礼の時に行われました。
しかし、この徴の物語はヨハネ福音書にしか記されていません。
なぜヨハネはわざわざこのように「最初の徴」だと特別に書いているのでしょうか。

ヨハネ福音書は、ヨハネグループとよばれる共同体に向けて書かれました。
実はヨハネ福音書ではマリアという名は出てきません。
この箇所と19章の十字架の場面で、「イエスの母」という名前で登場します。
主イエスの公生涯の初めと終わりにのみ登場しているのも面白いと思います。
そのような役割としてマリアを描いているのは、このマリアがヨハネ共同体としっかり結びついていたからだと思われます。
イエスは十字架上で、最も愛した弟子のヨハネに母マリアを託しました。
ヨハネはマリアを引き取って世話をしたとあるのはこのヨハネグループだとも言われています。
ヨハネ福音書とヨハネの手紙Tを書いた人は同一人物、あるいは信仰的にもとても近い位置にいた人たちが書いたと考えられています。
自分たちの共同体の中で起こった異端的な考え方に対して警鐘を鳴らすために書かれました。
ですから、ヨハネ福音書を読むときには平行してヨハネの手紙Tを読むとよくわかります。

ヨハネ福音書は、主イエスの働きをエルサレム中心に描いています。
ですからガリラヤでの働きは、とくにそれがガリラヤでのことだと断り書きをつけています。
ヨハネ福音書はフェニキヤで書かれたと考えられていますので、ガリラヤの地理に詳しくない人たちのためだとも思われます。
ただ、フェニキヤ地方にもカナという地域があるので「ガリラヤのカナ」と区別して呼ばれているとする考え方もあるようです。
このカナは新約聖書ではヨハネ福音書だけに出てくる地名で、ナザレの近くにあり、ナタナエルの故郷だとも言われています。
おおよそガリラヤ湖から西へ約20キロにあったと考えられていますが正確な場所はわかりません。

そして、わざわざ、この初めての徴というのが、水をぶどう酒に替えるというものでした。
私たちは主イエスの奇跡のわざと言うと、嵐を鎮めたり、何千人もの人のおなかを満たしたりとスケールの大きなものをイメージします。
あるいは、盲目の人の目を見えるようにしたり、重い病気を治したり、死んだ人を生き返らせたりもする絶対的な力に対抗するものをイメージします。
誰が見ても明らかにこれこそ神の徴ということをなされるのです。
なにより神様の栄光が表されるものでした。

ヨハネに記される奇蹟は七つあります。
第一がこの個所で、第二が4章役人の息子のいやし、第三がベテスダの池での病人のいやし、 第四が五千人の給食、第五はイエスがガリラヤ湖上を歩かれる、第六が生まれつきの盲人をいやす、第七がラザロの復活です。
こんなふうに突き刺して聖書を読んでみるのも面白い読み方です。
聖書記者ヨハネが福音書のために選んだそれらの奇跡と比べてみても、今回の奇跡はスケールも小さく、これで神様の業が現れるのだろうか、と思われることではないでしょうか。
正直言って他と比べるとどうでもいい、オマケのような奇跡ではないでしょうか。
それとも、まだ軌跡の力が小さかったので、コテハジメに小さな奇跡から起こしたのでしょうか。
大酒飲みのために、ぶどう酒を用意する。
あるいは、手配すべき宴の準備を読み違えた新郎や主人の恥をかかさないための奇跡でしょうか。
他の奇跡とは明らかに質が違うように思います。
何か別の深い意味があるのでしょう。
ですから、表面だけを捉えてはいけません。
そのことについてともに考えてみたいと思います。

普通、結婚式には夫婦で出席するのが常でした。
父親が言及されていないのは、この時には亡くなっていたことを意味します。
「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」とありますので、弟子になったばかりのペトロたちもその結婚の宴に招かれています。
ひょっとすると、一番新しい弟子であるナタナエルがカナ出身でしたから案内して行ったか、あるいは彼も親戚か何かだったのかもしれません。
日本でもそうですが、昔の田舎の婚礼というのは酒盛りを行い、羽目を外します。
1週間この宴会は続けられました。
当時、荒野にはエッセネ派と呼ばれる人々がいました。
律法を重んじ厳格な禁欲生活をしていました。
主イエスがそのエッセネ派に属していたかのように考える人がありますが、それは明らかに違います。
荒野で禁欲生活をしていたエッセネ派の彼らでさえ、婚礼の場では酒食を楽しまれたであろうといわれます。

「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。」とあります。
何故、第一の奇蹟が行われた場所が結婚式だったのでしょうか。
イエス様の母親マリヤがそこにいたというのですから、イエス様の家族とはかなり親しい家で婚礼があったものと思われます。
旧約聖書では神と人間の関係を、神を夫、イスラエルを妻に喩えています。
イスラエルを他の神のもとに行く姦淫、不品行の妻と呼んでいます。
このことを理解しないとこの奇蹟を理解することは出来ません。
婚礼の席での主役は、当然、花嫁であり花婿です。
このような状況で、奇跡が起こりました。

聖書が示すカナの婚礼のときの主役は、主イエスであり、準主役と見られるのがイエスの母マリアです。
そこで、まずの信仰について聖書から見てみましょう。
ルカ1章、御使から受胎告知を聞いたマリアは、「どうしてそのようなことになりえましょう」と答えています。
これは「そんなことはありえません」という不信仰ではなく、そのようなことは考えられませんということです。
そして、神の全能を信じて、「私は主のはしためです。あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えています。
ここにマリアの信仰を見ます。「おことばどおり」従いますという信仰です。

さらにルカ2章、主イエスの12才の時のエルサレム神殿における記事があります。
イエスの両親は、「イエスの語られたことばの意味がわからなかった」とありますが、「母はこれらのことをみな、心に留めていた」と記されています。
母マリアは、このみことばに深く心を留め、瞑想していたのです。
このルカの福音書の記事は葉はマリアの記憶によるものだと言えるでしょう。
ここにマリアの御言葉に対する信仰を見るのです。
これらのことが背景にあって、イエスの最初の徴がカナの婚礼で行われたのです。

話を本日の聖書箇所に戻します。
婚礼の席でぶどう酒がなくなったとき、マリアはそのことを主イエスに話します。
主イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と答えられました。
冷たく響く返事だと思いました。
「関係ない」と言う言葉は、最も冷たく、人間関係を遮断する言葉だと思います。
自分の母親に対して、「しらねーよ。関係ねーよ。」などと子が親にいうなどということは、古今東西あってはなりません。
しかし、ここで言う「関係がない」とは、私に指示しないようにという意味であり、わたしの時とは、十字架と復活の時を意味しています。
そしてマリアは、そのことを理解していたのかもしれません。
だからこそ「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と、召使に言うのです。
いつでも、イエスの望みに従って動けるようにしたのです。
マリアは親の情や権威を捨てました。
老いては子に従うといいますが、この時まだそれほどマリアは老いてはいないはずです。
ここに、お言葉どおりなりますようにというマリアの信仰を見ることができます。

しかし、これも面白いと思いました。
基本的に召使は主人の言うとおりにします。
ここは婚礼の席ですから、主人は新郎新婦、その家の主人だと言えます。
給仕をしているのですから婚礼の席に招かれた人たちも主人だと言えます。
ということはマリアがわざわざ「この人の言うとおりに」などといわなくても、召使はそのとおりにしたはずです。

わざわざこの言葉が記されていることが意義深いことがわかります。
このマリアの言葉は、私たち信仰者にとっても教会にとっても重要だと思います。
主イエスの言われたとおりに何でもするということが大切なのです。
ここから神の業は始まり、神の栄光を見ることができるからです。
あるいは、この人はとんでもないことをおっしゃる、という複線かもしれません。
主イエスは召使の人に、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。
そこで彼らは水を汲んできて水がめに、「縁までいっぱいにした」のです。

ぶどう酒がなくなっているという状況の中で、主イエスが言われたとおりに、水をかめに満たしたのです。
縁までいっぱいに水を満たしたのです。
しかも六つのかめに水を満たしたのです。
私が驚きまた感心するのは「何のために」と問わず従順に水を汲んだことです。
いわば清めの水とは沐浴のような使い方をする水がめです。
ぶどう酒が足りないのに水を汲む意味は何でしょう。
その疑問が湧くはずです。
もっと感心したのは《かめの縁まで水を満たした》ことです。
まるでワイン蔵のようなぶどう酒が出来上がるのです。
水がめ240リットルの水は井戸から汲んで来ます。
ポンプはありません、台車もありませんからそうとうな重労働です。
縁まで満たすとは「いっぱいに入れなさい」という主の指示への誠実さの表れではありませんか?
ほどほどでいいとは思わなかったのでしょうか?
この召し使いたちが主の栄光を見ることができました。
徹底的に、最後までイエスの言われたことを彼らは行ったのです。
かくて水は最良のぶどう酒に変わり、神の栄光が現わされたのです。
《世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした》。
汲んで満たした分量だけ、ぶどう酒に変わりました。
よくぞ縁まで一杯にしたものだ!いい加減に手抜きして三分の二位にしていたら、それだけのぶどう酒だったはずです。
ぶどう酒にすらならなかったかもしれません。
召し使いたちはかめの水がぶどう酒になったのを知らずにいました。
水がめを満たしたらどうなるのかを知らずに、ただ従ったのです。

私たちの教会も、「縁までいっぱいに満たす」教会でありたいと思います。
イエスの言われた通りにしましょう。
そうすれば、イエスは奇跡を行い、神の栄光を現わしてくださるはずです。
神の栄光はそこから始まります。
リバイバルはここから起こされるのです。

今日のテキストの終わりの方に「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」と書かれております。
これをどう考えるか、一般に奇跡をどう受け取るかは私たちにとってのまさに重要な問題です。
このカナの婚礼の席での葡萄酒の奇跡を前にして多くの人が悩んできました。
そしていろいろ合理的な解釈をして来ました。
その人たちは、キリスト教から奇跡を取り去ってしまえばもっと信じやすいのにと考えました。
しかし、そのような人は、キリスト教を信じやすいけれども無力な、ただの教訓話に引き下げてしまう人です。
奇跡の信じられない人はキリストの復活も信じません。
まして永遠の生命は信じません。
そのような人にとってキリスト教はいったい何なのでしょう。
単なるヒューマニズムの実践、それ以上のものではありません。
C.S.ルイスという人が書いた『偉大なる奇跡』(本多峰子訳、新教出版社1998)の中にこんなくだりがあります。
「キリスト教から奇跡的要素を剥ぎ取ることは出来ないかと問われます。(中略)しかし、おそらく、そうしたことが出来ないまさに世界でただ一つの宗教が、キリスト教なのです。
佛教のような宗教では、ゴータマ・ブッタが行ったと後世に付記された奇跡を取り去っても、失われるものはありません。
実際、佛教の場合は奇跡を取り去ったほうがずっと良いでしょう。
佛教の場合、奇跡は大方、教えと矛盾するからです。
モハメッド教のような宗教の場合ですら、奇跡を取り去っても、本質的な部分は何ら変わりません。
偉大な預言者が、奇跡を行わないで教えた教義としても通るのです。
しかし、キリスト教は、決してそうはいきません。なぜなら、キリスト教の話は、まさに一つの偉大な奇跡の物語だからです。
キリスト教の主張は、すべての時空を超えたもの、被造物ではない永遠の存在が、自然界に入ってきて人間性のなかに入り、自分自身のものである宇宙に下りまた昇って行かれる時に、御自身と共に自然も引き上げて下さったということだからです。
これはまさに、一つの偉大な奇跡です。それを取り去ったら、何も特にキリスト教的なものは残りません。
キリスト教は、人間の手による多くのすばらしいものを他の体系と分かち合っているでしょうが、奇跡を取ったら、キリスト教ではなくなってしまうでしょう。」

よく考えてみてください。
本当は私がここにいること自体が奇跡です。
時間や空間もまことに奇妙なものです。
奇跡は起こり得るとするほうがむしろ物事をスムーズに考えられます。
天地創造の神の御子である主イエスにできないことはないのです。
主イエスは奇跡の人です。救い主です。カナ出身のナタナエルは主イエスにお会いする前、いちじくの木の下に立っていたことを主イエスに見抜かれて信じるようになりましたが、それは一種の超能力ではありますが、まだ奇跡とまでは言えませんでした。
しかしカナの婚礼の席上の葡萄酒のことは、はっきりと奇跡であったといえます。聖書はそれを「しるし」と呼び、それで栄光を表されたと言っています。
ヨハネ福音書にはその「しるし」という言葉が多く用いられています。今その一カ所を紹介します。

私たちも、奇跡を水で薄めて、キリスト教を信じやすいかわりに、何の役にもたたないものにしてしまうのでなく、躓きそうな奇跡物語ですがイエス様を「神の許から来られた」方であると信じることによって、確実な救いの土台のかしら石としたいものです。
イエス様はバプテスマのヨハネの弟子たちに言われました。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである(マタイ11:4-6)」と。そうなのです。
誰でも躓きそうな奇跡の人であるからこそ、私たちを救うことも出来るのです。まことに、この人に「つまずかない人は幸い」なのです。
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」
私たちも、この「カナの婚礼での奇跡」の記事を読んで、イエス様を救い主であると信じる者になりましょう。

今年受けた恵みに感謝して、神に信頼し、御言葉に従い、信じる者として歩む2009年でありたいと思います。


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神の徴 2008/12/28 ヨハネ2:1-14 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
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