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zoom RSS クリスマスの光 2008/12/21 エフェソ1:3-14

<<   作成日時 : 2008/12/21 23:06   >>

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クリスマスの光と題して、午前中の礼拝を学びました。
「クリスマスの光」とインターネットで調べてみましたら
教皇ベネディクト16世は3年前今日、2005年12月21日に「クリスマスの光」というテーマで講演したそうです。
その中でこのように述べておられます。
「この季節だからこそ、闇に打ち勝つ光のシンボルをより理解できる時です。このシンボルは人間の最も深いところに触れるものです。それは悪に打ち勝つ善の光、憎しみに打ち勝つ愛の光,死に打ち勝つ命の光だからです。クリスマスはこの内面的な光を思い出させる時です。神の光は再びその愛の深さを私たちに告げるからです。(中略)この真の光を受 け入れるために、開かれた心を持つことができますように。私たちの人生の星はベツレヘムでお生まれになったインマヌエル(私たちと共におられる神)です」
私たちがクリスマスを祝うのは、主イエス・キリストが人となって肉体をとり、私共の中に宿られたことを心に刻む為であります。
まことの光が私共の中に宿り、一切の闇を打ち滅ぼして下さったことを心に刻む為であります。

パウロは我々の救いにおける神の御栄光に特別な強調を置いています。
我々を罪から救うという御父の御計画には「恵みの栄光が、ほめたたえられるため」という究極的な目的がありました(1:6)。
救いの完成という御子によるみわざは「神の栄光をほめたたえる」ことに終わります(1:12)。
聖霊は「神の栄光がほめたたえられるため」に救いの保証として神の御民に与えられる(1:14)。
神は世界が創造される以前から人間の救いを計画され(1:4)、御自分が救おうとされる者を選び、彼らを高く上げ、彼らに被造物に与え得る最高の祝福を授ける、と定められた(1:5)。
時が来て、神は人間となった御子の死により私たちを救い給い、選ばれた者たちは内に住み給う御霊なる神の祝福を恵みの証印として与えられました(1:13-14)。
ここには、人間のわざや誉れなどの入る余地はありません。
救いが完成される時、人間が唯一口できるのは、ただ「神がほめたたえられますように」ということです。
それこそ、パウロがこのエペソ1章3〜14節で述べていることです。


パウロは、神の御心によって使徒となりました。
おなじように私たちにも神の御心は働いています。
神は、「天地創造の前に」私たちをお選びになったと聖書は語ります。
生まれる前から、いや世界が造られる前から、全部決めておられたといいます。では、人には、選ぶ自由などないのでしょうか。
運命論といわれます。
もし、そうだとすると、私たちが努力をしてだれかにキリストの愛を伝えることはむなしいように思われます。

しかし人には努力で変えられることがあります。
勉強をし、体を鍛え、仕事に励むことはできます。
けれども選べないこともあります。
体つきや性格、持って生まれた才能などは、どうしようもありません。
死を避けることもできません。そこで大事なのは何でしょうか。

こういう祈りがあります。
「神よ、変えられるものを変える勇気をお与えください。変えられないものを受け入れる静けさを与えてください。そして、変えられるものと変えられないものを見分ける知恵をお与えください。」
美しい祈りです。
心を低くし、熱い思いで神の御心をたずね求めています。
これが、私たちの祈りです。

自分ではどうしようもないことに出会います。
その時、どうしたらいいでしょうか。
不満をもらすのでしょうか。
運命だとあきらめるのでしょうか。

パウロは3節で神をほめたたえています。
神が自分を使徒に選び、祝福してくださったと感謝します。
彼はこの手紙を、牢屋のなかで書いているのです (3:1)。
主イエスを宣べ伝えたために、囚われの身になりました。
捕らえられたら、いつどうなるか、分かりません。
それでも神の恵みを思います。
感謝と賛美が湧きあがってきます。
神が恵みをくださっています。
今日、生きていること、食べる物と住まいがあること、友がいること、教会に招かれたこと、そのすべてが神の恵みです。
それを一つ一つ、数え上げます。
うれしくなり、感謝します。
主をほめたたえずにはいられなくなります。

勉強をしなければならないのに、手がつかないのは、嫌だと思うからです。
それは、だれでもそうです。
大人でも気が重いことを後回しにしたいと思わない人はいないでしょう。
そうではなく、事実を受け入れれば、取り組み始めます。
すると、おもしろくもなります。
夢中になれば、すぐにやりとげることもできるかもしれません。
強いられたことの中にも、神は恵みを用意しておられます。
それを知ります。そうして賛美が口をついて出てきます。

人が自分の力で変えることのできないものがあります。
しかしそれもまた御心です。
何か大きな、深いお考えがあるのです。
その御心を知る鍵が、主イエス・キリストです。
世界が造られる前から主はおられ、天地創造に立ち会っておられたと言います。
それは、神が初めから、私たちを救い主と結び合わせ、救おうと決心しておられたということです。
それなのに、人は何でも自分の自由にしたいのです。
神に背き、御許から離れます。
主との結びつきを自ら絶ち切り、根無し草になってしまいました。
罪の暗闇をさ迷います。
神はそんな私たちを憐れみ、主を十字架にかけて赦してくださいました。
初めから人間を愛そうと決め、そのとおりになさいました。
私たちは、この恵みの主をたたえます。
神の深い御心に感謝します。そうしないではいられません。
私たちはこれからどこを通り、どこへ行くのか、知りません。
しかし神は深い御心で私たちを守り、救ってくださいます。
博士たちが星だけを頼りに遠く旅したように、道は見えずとも確実に、着実に道は示されます。
その道は御国へと続くたしかな路です。
それに守られ、導かれて進んでいきます。
御心の示されるままに、一歩一歩を重ねていきます。

「人のおもな目的は何か。神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことである」。
私たちは神の栄光を現わすために創造されました。

しかし罪人である人間は、神のものである栄光を盗み、自らのものとしようとしました。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ[ない]」(ローマ 3:23)。
パウロは、我々が創造された目的を果たしていないという事実について語っています。
我々は神の栄光を現わすために造られたのですが、そこに到達しません。
自分の思い、言葉、行いによって、神の栄光を現わすべきであるのに、その責務を全うできません。
贖われた罪人として、我々は人間の最初の目的を果たすよう回復されています。
今や我々は神の御栄光を求め、神を喜ぶことができるのです。
この世にあっては罪人としての自分はあくまでも残るが、贖いとは、我々が神のために真に生きることができるという意味です。

エフェソの手紙において「光」というキーワードを思い起こしてみると、「光の子らしく歩きなさい」というみ言葉が上げられます。
光の子らしく、神様の栄光を帰すように歩んでまいりましょう。

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