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zoom RSS 神の祝福に連なる 2007/12/7 イザヤ40:1-8

<<   作成日時 : 2008/12/07 21:02   >>

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イザヤ書40章にもし名前をつければ「慰めの章」でしょうか。

私たちはいろいろな弱さや問題を持っているので、いつも自分に対して不満があります。
また住んでいる世界にも問題が多く、主イエスご自身も「この世はわざわいだ」とおっしゃったくらいですから、完璧な世の中などは存在しないのかもしれません。
悲しみや失望が多いのです。
それゆえ、人間には「慰め」が必要です。
やさしい言葉やいたわりで悲しみがうすめられ、理解や励ましによって新しい勇気と希望が回復する、そういう慰めを人は求めます。
神様は聖書の中に「慰め主」として、しばしばご自身をあらわされました。
また神様を信ずる人たちの集まり、そこにも慰めがあふれます。
トゥル ナイゼンという神学者の『牧会学』という本の副題には「慰めの対話」とあります。
夏に研修会に参りました加藤常昭先生が翻訳をなさいました。
単なる慰めではなく、慰めの対話だというのです。
教会もお互いに慰め合うところなのです。
私たちに必要な本当の慰めは、救われて、まことの神、 慰めの神に立ち返るというところから与えられます。
何ゆえに、こうまで人間は弱さや問題の中に生きているのでしょうか。
なぜ世の中はこうまで問題や矛盾が多いのでしょうか。
その原因は、人間が罪を犯し神にそむいて、神様から離れてしまったことにあるのです。
私たちは、自分の魂からも、生活からも、神様を追い出したつもりで、神様ぬきで暮らしているのです。
その不信仰な人間の集合である世界も、神様ぬきのつもりで運営されているのです。
それが問題の原因です。
ですから、「神様が、イエス・キリストの十字架によって、罪をゆるして下さる。悔い改めと信仰によって、神に立ち返ってくる者を受け入れて下さる」という救いのメッセージは、同時に、最高最大の慰めのメッセージなのです。

イザヤ書40章以下は、「第二イザヤ」と呼ばれる預言者たちによって語られたものと言われています。
南王国ユダヤは、紀元前586年、バビロニア帝国の三度目の攻撃を受けて滅亡しました。
その時民族のよりどころであったエルサレム神殿は完全に破壊されました。
民の中の主だった者たちは、皆、異国の地に引き行かれ、約半世紀にわたって捕囚の身とされました。
「バビロン捕囚」と言われている民族存亡の危機に立たされたのです。
これは、遠い昔、彼らの先祖たちがエジプトで経験した奴隷の苦難と屈辱との再現でした。
約半世紀後に新興のペルシャ帝国がバビロニアを滅ぼしたので、故郷に帰ることを赦されたのです。
まさに、第二の「出エジプト」です。
第二イザヤは、その頃に活躍した預言者です。

イザヤのメッセージは、直接には、繰り返しの背神と罪のために、神様の祝福と保護を失い、亡国の憂き目に会い、バビロンで捕囚生活を送らなければならない、ユダヤ人に向かって語られたものです。
国が滅びることがどんなにつらくても、外国での捕囚生活がどんなに心細く苦しくても、彼らにとっては自業自得でした。
しかし今、その刑罰の期間は終って、ゆるしの時が来ます。
開放と帰国がゆるされると、イザヤは預言したのです。
この預言は、その時代だけでなく、今世界に向かって宣べ伝えられている、イエス・キリストによる救いのメッセージにもっと深い完全な意味で当てはまります。
それゆえ、新約聖書の著者は、この預言を、救い主キリストの先駆者として奉仕した、バプテスマのヨハネのメッセージに当てはめて記したのでした。

 しかし、このメッセージを聞いても、これを受ける人と受けない人があるかもしれません。それでは大変ですから、次の勧告のメッセージが続きます。
 3節から5節に
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

王様が国中を視察する時には、その移動する道では、道路工事が始まります。
道路だけでなく、沿道のものいっさい、見苦しくないように、巡幸が快適であるように整備されました。
それ同じように、イエス・キリストを救い主として受け入れるために、私たちに心の用意を整えなさい、という勧告です。
「主の口がこう宣言される。」
だれが、そのこと勧めたのでもないということです。
聖書の福音は、間違いのない、神様が責任をお取りになるという宣言であります。
救い主イエス・キリストは、救いと、祝福と慰めをもって、あなたの魂と、生活の中に、家庭と社会の中に入って来て下さいます。

「さばく」のように荒涼として飢え乾き、慰めを必要としているその中に、キリストの入りたもう「道」を備えよと。
「卑屈、絶望の谷」は信仰によって、「傲慢の山と丘」は謙遜に、「疑惑と複雑の険しさ」は、単純と従順に整えられなければならない。
かくして、すべての人は救われ、救い主キリストの栄光はそこにあらわれ、多くの人がそれを見るようになる。
そういうことです。

イザヤがこのことを説いた頃を思い起こしてみると、主の道とはバビロンからの道として考えることができます。
実際にその時、地理的自然が奇跡的に変化する天変地異があったわけではありません。
捕囚から解放されたときも山は山でありましたし、谷も谷のままだったはずです。
それはつまり、山や谷が変化することを、バビロン捕囚からの解放という歴史的出来事に見たのでしょう。
絶対的とも思われる絶望から開放されたということでしょうか。
神の栄光が現されるためにまるで山や谷が変化するようだと語られているのです。
支配と被支配、富と貧しさ、自由と不自由という谷間が埋まると言うことかもしれません。
もっと言えば、本来いるべきではない場所に強制的に留め置かれたところから解放されるということが、山や谷の奇跡に現されることかもしれません。

私たちが救いへと導かれることは、このくらいに大きな変革であるということです。

続く6節から8節を見ましょう。
呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが私たちの神の言葉はとこしえに立つ。

歴史を見ますと人間はたくさんの文明を築き上げたくさんの事業をなしてきました。
いつの時代、いつの人間にも、すべての人の終わりに死が待っています。
事実は、ここに記されたイザヤのメッセージのとおりです。
どんなに初物を食べ続けた人も永遠の命を手に入れることはできませんでした。
すべては一時的でむなしく、私たちに本当の喜び、希望、充実、すなわち真の慰めを得ることはできないのです。
だからこそ、そのことをよく知って、世のものに心を取られないで、神様に立ち返ることが大切だと説くのです。
人はむなしいとき声を上げます。
皆さんは、人生の荒野から、これまで、どんな声を発してきたのでしょう。
「何で私だけがこんなつらい目に会わなくちゃいけないの。」そんな愚痴ばかりこぼしてこなかったでしょうか。
それとも、「俺は何も悪くない。悪いのはあいつだ。俺はただ巻き込まれただけで、運の悪い被害者にすぎないではないか。世間は、ちっとも分かってくれない。ええい、馬鹿馬鹿しい、世間なんて、人間なんて、もう相手にしてやるものか」とそっぽをむき、尻まくりをしてこなかったでしょうか。
あるいは 又、「つらい、悲しい」の一天張りで、泣きの涙に暮れ、自分の殻に固く閉じこもってしまうことはなかったでしょうか。
本心に立ち帰って裸になるべき時に、エゴの殻に閉じこもってしまう。
ひざまずき、悔い改めるべき時に、自己正当化を始めてしまう。
人は大抵そのようなアベコベをやっているものです。
しかし、世間を呪い、人を恨み、神さまにお鉢をぶつけて、「もう相手にしてやるものか」などと息巻いてみても、自分が相手にされなくなるだけのことです。所詮、「独り合点」の「一人相撲」の「堂堂巡り」というところに迷い込んでいるだけなのです。
そういう「傲慢−卑屈」や「卑屈 −傲慢」から、命への道=復活の道が開かれてくることはありません。
さらに荒野の奥深く迷い込んでゆくだけでありましょう。

自分の内側に取り付いてしまっている呪いを祝福に変えて下さいと祈ります。
逆境の時にこそ悔改めが必要です。
そして、生きる姿勢を根源から、全体的に転換します。
澱んだ空気を入れ替えるために窓を開けるように。
そういう転換をはかる人は、自分だけでなく、同じような境遇にある隣人に対しても、真実の慰めを語りかけます。
「怖れるな、この世界は、神の御手に納められているのだ。自分の小さな手に余るからというだけで慄(おのの)いていてはならない。見よ、主なる神を!見よ、あなたたちの神を!」第二イザヤは、自ら転換しつつ、人々に転換を呼びかけて「立ち帰れ」と言うのです。これこそが「慰めの言葉」です。 

現代人の多くは、人を慰めることが出来ません。
「慰める」ことと「甘やかすこと」の区別をつけられないでいるものですから、「慰めのふり」や「慰めたつもり」で事を済ませてしまうのです。
確かに、悲しんでいる人は慰められなくてはなりません。
イザヤ書の「慰め」は、私たちが想像するのとはまったく別の角度から、もっと注意深いやり方で語られます。
悲しむ人が、自分の悲しみに捕らわれ、ひたすら自分本意に悲しんでいるような生き方を、「よしよし」と容認してあげる言葉は出てきません。
悲しんだり、悩んだりしている時、その理由が何であれ、人は極度に自己中心的、自己憐憫的になっているものです。
そして、注意深く自分の悲しみや悩みを観察できる人は気づくかもしれません。
密かにか堂々とかの違いはあっても、悲しみ・悩み・痛みなどの裏側には、必ず敵意や呪いが張りついているものです。
自分の不注意で石ころに躓いても、「石ころの分際で、そんなところに居座りやがって」と、罪の無い石ころにお鉢を回すほど、人間は自分本意な生き物です。まして、隣人というつまづきの石においてをや、です。
周囲の人々から小さな咎(とが)をほじくりだし、それを何倍にも何十倍にも膨らませて文句を言っているのが、悩み苦しんでいる人によく見られる光景です。被害者が、むしろ加害者になっているものです。
十分が悩んだり、苦しんだり、思い煩っている時は要注意です。
自分自身の甘えに要注意です。

フランチェスコの平和の祈りに、次のような一節が出てくるのをご存知でしょうか。
「慰められるよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、 愛されることよりも愛することを、求めることが出来ますように…」。
これは、福音によって呪いを祝福にかえられ、魂のどんでん返しを経験した者の祈りであり、願いです。
理解してもらえないことや愛してもらえないことを悩んでいるのではありません。
十分に理解してあげられないことや愛して挙げられないことを悩んでいる人の祈りです。

主の言葉を自分への語りかけとして聞いた者は「高い山」昇ります。
そして、「シオン」に向かい、「ユダの町々」に向かい、「この世界」向かって、「呼びかける者」となります。
慰めの言葉を語り始めます。
見せかけの慰め、その場しのぎの慰めではなく、本物の、しかも永遠の慰めを語ります。
「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉は、とこしえに立つ。」これが慰めの言葉です。
これこそが慰めの言葉です。世の人々が期待している慰めとは違いますが…。
世の慰めは、束の間の「草の命」や「花の美しさ」を拠り所とし、それにしがみついたまま、ホンの一時気分を満たし和らげるだけです。
それとは逆に、神の言葉の慰めは、「草は枯れ、花はしぼむ、まことに人は草だ、花だ」と言う所から始まります。
そして「神の言葉はとこしえに立つ」で結ばれています。

私たちは、この慰めの中にありつつ、備えつつ主の御降誕を待ち望みたいと思います。

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