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zoom RSS 神の祝福に連なる 2007/12/7 マルコ1:1-8

<<   作成日時 : 2008/12/07 13:09   >>

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教会暦での昨年度まではマルコを学んでまいりましたので、今年はマルコを学んでまいります。
マルコ1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
福音書記者マルコによる、これが主イエス・キリストの福音の始まりであるという宣言です。
この福音書のタイトル、表題とでも言うことができるかもしれません。
「主」というのは「神」「神の子」という意味です。
イエスと言うのはイエス様ご自身の名前です。
ヨセフのところに現れたみ遣いによって「イエスと名付けなさい」と示された通りのファーストネームです。
そして、キリストというのは、「救い主」という称号、肩書きであります。
ですから、この箇所をもっと砕いてみますと、神の子であり、救い主なるイエスの福音 と訳せるかと思います。
イエス様が神の子であり、キリストであるということは、福音書を最後まで読んで、始めて目が開かれてわかることです。
ここで、マルコは、この福音書を読んだ読者が疑問に思うことなどお構いなしに、冒頭に堂々とこのことを掲げているのです。

キリストとは英語に訳されますと「メシア」であります。
この「メシア」というのはさらにさかのぼってみますと「油注がれたもの」という意味です。
この油を注がれるものと言うのは、その昔は3つありました。
1つは王様です。
王は油を注がれて王様に襲名します。
預言者もそうです。
祭司もそうです。神の前にたって人々のために祈る、執り成す者です。

この3つの油を注がれる働きが一つとなる人が生れてくる。
この預言の成就が、主イエスである。
このイエスが私たちによい知らせを告げるのだ、
という意味がこの言葉にこめられています。

王として、預言者として、祭司として、この3つの役割のためにイエスは人となってこの世に来られたということであります。
中でも、マルコは勝利者としてのキリストは来られたということと、仕える者、祭司としてのキリストを強調しました。

マタイのように山上の説教によって人を教え導く者としては描きませんでした。
ルカのように、放蕩息子やよきサマリヤ人の譬え話を多く書き残しませんでした。

マルコは言葉による教えではなく、行動の人としてイエス様を描いたのです。
神に仕える者として主イエスを描いています。
私達の側に立って、十字架の死によって執り成してくださると言うように書かれています。

福音とは、すでに冒頭で申し上げましたが、「よき知らせ」のことです。
その昔、自分たちの勝利を伝えるために休まずに走った人がいました。
マラソンの42.195kmを走ったその人が伝えたのが「福音」です。
もともとは戦争に勝った、という知らせを本国に伝える、その時に用いる言葉です。
ギリシャ語ではユーアンゲリオンという言葉が使われていますが、勝利の訪れです。

紀元前490年、ギリシャ軍がペルシャと戦っておりました。
ペルシャ軍の方が人数も多く強かったのですが、ギリシャ軍が勝利しました。
しかし、退いたペルシャ軍が今度は海からアテネを攻めるのではないか、
勝ったことを知らないローマの市民が恐れをなして降伏してしまうのではないか、
と心配した司令官は、戦いに勝ったことを伝えるために伝令を送りました。
彼は、戦場のマラトンからアテネまで走り、勝利を報告した後、命が絶えました。
この「勝った」という勝利のニュース、すなわち「よい知らせ」を伝えるという言葉です。

私たちは「福音」と聞くとそんな戦争の報告と受け取ることはありません。
私たちはキリストイエスによってもたらされた勝利の報告と言うことです。
イエスキリストによって、私たちに勝利をもたらされたという事が言えるのです。
神の国が近づいた、というのがイエス様の福音のメッセージです。
メッセージですから、発信者と受信者が必要です。
つまり発信者は創造の神であり、受信者は私たち人間です。
私たちは神様からのメッセージをしっかり受け取らなければなりません。

少し前に天国に一番近い島、などという宣伝文句がありましたが
どこか遠くにある天国がこちらに近づいている、あるいは自分が天国に近づいていっている、ということではありません。
神の支配が近づいている、手を伸ばせば届くところまで来ている、というのがイエス様の教えです。
それは、悪の力、サタンの力、罪や死によって支配され、占領されてしまっている私たちを、受け入れさえすれば開放してくださるという知らせです。
サタンは、私たちを誘惑します。
私たちを攻撃します。躓かせます。落ち込ませます。傷付ける働きをします。
サタンの力は、生身の人間の私たちにはどうすることもできない強力な支配です。
そして、私たちは罪というしがらみの中に生きています。
この罪の結果は死です。
私たちはだれもが絶対に避けて通れない死の不安に縛られています。
それら全ての支配から主は解放してくださる。
このような働きを示しています。

ではこの勝利者である主は、どのようにしてこの勝利を得られたのでしょうか。
これは究極的には仕えることを通して、自分の命を与えることを通して勝利を得られたのです。

ある聖書学者はマルコの福音書は、主イエスの苦しみの物語にほんの少しの序文が付いているだけだ、と言いました。
たしかに主の最後の1週間の描写のために福音書の1/3が割かれています
この中心的なメッセージは、10:45だと言われます。

マルコはたとえ話や、主の説教を記すことを最小限に留めました。
編集するに時間的にか、資金的になどの制限があったのかもしれません。
主は仕えるため、ご自分のいのちを与えるためにこの世に来られた、これがマルコが後に残したいと著したのです。


「初め」という言葉を見てみたいと思います。
「はじめ」というのは、イエス様がナザレの村から出て、教えをのべ伝える前に、
洗礼者ヨハネがガリラヤで悔い改めのバプテスマを施していた、という事実を述べようとする表題であると言えます。
旧約聖書の冒頭にも「初め」が出てきます。
創世記です。
今回は歴史の初めではなく、キリストの福音はこのようにして広まった、ということを意味していると言えます。
また、別の訳の聖書においては、「源」とも訳されています。
とすると、このことは時間的に「始まり」というだけでなく、それ以上のものを感じます。
ですからこの第一節は、福音の始まりがどこにあるのかという意味を広め、深めます。
神の支配は、どう始まるのか、と言うことです。
マラトンの戦士は、勝利の知らせを伝えると息絶えた。と言われています。
兵を送り出した本国は、勝利の宣言を待ち望んでいました。
いつくるのか、今か、まだかと首を長くして待っていました。
そこに命を懸けて、この良き知らせを伝えるために走者が飛び込んでくるのです。
勝利によってもたらされることは、これからじわじわとやってきますが、とにかく勝利の宣言がなされたのです。
この勝利を津たる者の死によって終わってしまうものではありませんでした。

私達の勝利を知らせる福音は、今もなお繰り返し語られています。
そしてこの神の支配はいつまで続くのでしょうか。
もう終わってしまったのでしょうか。
いいえ、永遠に続くのです。
マルコは、福音書の最初をイエス様ご自身の誕生から書き始めませんでした。
バプテスマのヨハネの誕生からも書き始めませんでした。
もっと以前の預言者の夢を持って始めました。
そして、この始まりは、今もなお続いている始まりであります。
福音もまた、時間的な広がりを持っているからです。


私たちは間もなくクリスマスを迎えようとしています。
毎年同じ「ちうぐらい」のクリスマスかもしれません。
いいえ、毎年新しいクリスマスです。
特に、今年は私たち成田教会にとっては、本当に何年ぶりかでの洗礼者が与えられています。

神の支配の宣言を胸に、喜びと感謝のうちに主の御降誕を待ち望みたいと思います。

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