日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS めぐみはとこしえまで

<<   作成日時 : 2008/11/23 12:02   >>

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本日は収穫感謝の礼拝です。
目の前には捧げものがあります。
私達は毎年この日を迎えますが、1年間を通して私達が上よりの恵みに預かり、どのような収穫を得てきたかを確認することはとても大切な事です。
今日、神を信じ礼拝することによって、明日の収穫・新しい収穫があること主に期待していきたいと思います。

収穫の時に喜び楽しむために、私達は主に信仰を捧げていなければなりません。
信仰がなければ神に心からの感謝することが出来ないからです。
主の恵みを疑わず受け取るなら、感謝が湧き上がってくるのです。
ですので、それに関する聖書もお読みしたいと思います。
  申命記26章の1節から11節です。

初物は75日長生きできるといわれています。
昨日、家内の父が訪れてくれました。
庭になった初なりの柿を持ってきてくれました。
75日長生きできる、と言われるだけで私たちは「じゃぁ、食べなくちゃ。」と思うものです。
せっかくわざわざ持って来てくれた父に感謝しますが、残念ながらこれは「気の持ちよう」とでも言いましょうか、何の根拠もありません。
聖書的であるということはできません。
もし本当に75日長生きできるのであれば、75日以内に初物ばかり食べ続けて、死なない人がいるはずだからです。
とはいえ、初穂は神にささげるにふさわしいものです。
まず神にささげて、感謝を持ってみなで少しずつわけていただきたいと思います。

永遠の命に至る神の言葉を聴きましょう。
さて、今日は教会暦では一年の最後の主日となります。
来週からは、イエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節に入ります。
《人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる》とあるように、ともに終末の出来事、キリストによる「最後の審判」の御言葉を聞きましょう。

マタイ25章は主イエスが「最後の審判」に関して語られた箇所として、最も長い記述として有名な箇所であります。
最後の審判の時、私グループたちは王の前に出されます。
そして、羊のグループと山羊のグループにわけられます。
当時は、羊の方は財産的に重要でした。
飼われている犬と野良犬の差と同じです。
一見すると、羊と山羊は見分けがつきにくい。
主イエスが人々を分けた境目、つまり救われるかどうかの基準は純粋な愛に依るというのです。
羊のグループは永遠の命が与えられ、山羊のグループは永遠の火の中に投げ込まれるのです。
つまり、羊グループは天国に行き、山羊グループは俗に言う地獄行きということです。
続いて先週ともに分かち合いました箇所、花婿を待つ乙女たちの譬えです。
ここでは賢い乙女と愚かな乙女とに分けられ主人によって戸が閉められ、祝いの筵からはずされてしまうということが語られました。
そして、本日の御言葉です。
主イエスはここで私たちがどちらのグループに属するか簡単な基準を示されます。

「私が空腹の時に食べさせ、渇いた時に飲ませ、旅人だった時に宿をかし・・・獄にいた時に訪ねてくれたか」
聖書によると、その分岐点はここだといいます。
これを聞いた羊、山羊、両グループはこの基準が理解できず当惑するわけです。「えっ!私たちはイエス様が空腹でのどが渇いていたことなど知りませんで した!」と。
これに対してイエスは答えて言います。
「私の兄弟(姉妹)である最も小さい者にしたのは、私にしたのである」と。
そして後半のところでは、同様に「最も小さきものにしなかったのは、私にしなかったのである」と答えています。

主イエスがここで言おうとしていることは、このようなことです。
私たちが最も小さき者、を助けることにとどまらず、イエス様を助け、神の栄光をたたえることになるのだということです。
また、その逆に小さき人を私たちが拒む時、私たちは小さい人を拒むだけにとどまらず、イエス様を拒み、神を拒絶することになるということです。
つまり、私たちが自分の隣の人を傷つける時、実はイエス様を傷つけ、神を傷つけているのです。
だれもそんなつもりはない、と口々に言うでしょう。
しかしそれと同じだ、と主イエスはおっしゃるのです。

この箇所を読んで最も注目すべきところは、主イエスが自らを当時の差別の対象となっていた「最も小さい者」と同一化していることであります。
実際、世界の救い主であるイエスは生まれたところが、大きな宮殿や寺院でなく、粗末な馬小屋でした。
そして、その生涯「最も小さき者」の一人として、「飢え、渇き、宿なく、病に倒れ、獄中にある人々」と共に歩まれたのです。
そしてイエスはまさに自ら「最も小さき者」である「罪人」として十字架で処刑されたのであります。


先週も哲学の話をしました。
哲学とは一番古くからある学問で、古代においては神学と同じものでしたから、神学を突き詰めていくと哲学になるのでしょう、
フランスのラ・ロシュ・フーコーという哲学者というか貴族がいました。
このフーコーは「人間には直視できないものが二つある」と言っています。

その一つは私たちを照らし輝く太陽だそうです。
そして、もう一つは自分の死であるとのことです。
これは彼が著した箴言集にある言葉ですが、この言葉を残したフーコー自身も自分も死に向き合う勇気がない、と言っています。
確かに私たちは「死」を日常会話で話題にすることはあまりありません。
さらに、日本には「死」について語ることもタブーという感覚があります。
人は必ずそこを通るというのに、不思議なものです。

学校や職場では毎年火災訓練が行われています。
これは法律で決められているからしなければならないものです。
私も甲種か乙種か忘れましたが防火責任者の講習を受けた覚えがあります。
しかし、実際には自分の家や職場が火災にあう確立はきわめて低いと言えます。
個人的な見方をすれば自分が直接関わる火災の発生率は少ないのです。
誤解をしないでほしいのですが、私は訓練や備えが必要ないといっているのではありません。
問題はここからです。
100%の確立で私たち全員に訪れる死についての準備がまったくなされていないということです。
毎年誕生日や結婚記念日に、癌の告知はどうするか植物状態になったらどうするかなど、夫婦で話し合い、死の準備をするべきだと言われます。
死を見つめるということは、それまでの生をどう生きるかを見つめることです。
しかし実際にはなかなかそんな話はできないものです。
徳光さんも検診の奨励のCMをしていますが、自分自身の健康診断や生命保険についてもあまり積極的に考えたいとは思わないのではないのでしょうか。
どう生き

しかしこれとは逆説的に死後の世界については興味本位なものを含めて話題に事欠きません。
自分がどこから来てどこへ行くのかを知ることは古今東西、人間共通の関心事なのでしょう。

キリスト教界でも死後の世界、天国と地獄に関連したたとえ話、教訓物語、笑い話などは数多くあります。
例えば、このような話があります。
「ある人が死んで天国と地獄の境に到着しました。
天使ガブリエルがこれから天国と地獄の両方を案内してくれるということでした。
はじめに地獄に行くと、そこでは宴会が開かれていました。
しかし、そこにいる人々が持っている箸は人の背丈以上に長いものでした。
皆はご馳走を前にしてものを口にはこべず、衣服を汚して凄まじい光景でした。その人は「ここはご免」と次に天国に行きました。
天国に行くと驚くべきことに同じようなご馳走を同じような長い箸で楽しそうに食べていました。
ただ地獄と違うのは、天国ではそれぞれの人がお互い隣の人の口に、食べものを運んでいることだったのです」
この話はアジアの教会でよく話されると聞いたことがあります。
皆さんのなかにもお聞きになった方がいらっしゃるのではないかと思います。
私は子供の頃にこの話は天使ガブリエルではなくて、中国で言い伝えられている話として聞きました。
そしてだから中国の食卓は丸いのだと。
中国では、丸いテーブルでぐるりと円形に着席します。
人数が多くなると丸テーブルがいくつも室内に置かれます。
一般的に日本では長方形のテーブルです。
着席には序列があり、上座から下座へとなっています。
成田教会で食事をするときもそうです。
丸テーブルでの席順も日本とは異なった考え方で決まります。
中国料理の円卓に置かれる料理は大皿に盛りつけられており、それをみんなで分け合います。
各人はそこから自分の欲しい分を取り皿に分けとっていきます。
さて、宴席が始まってみると、長方形の場合は、何だか格式張ってるようにも思われます。
私は学生時代体育会系でしたから、先輩にはけっこう気を遣いました。
接待のある業界ではありませんでしたので、会社での宴会といえば、歓送迎会とか忘年会くらいでした。
大広間での宴会の場合、宴も進んでくると活発な人がそれぞれ自席を立って自分が話しをしたい相手の面前に座り直し、「一献どうぞ」とか「お流れ頂戴」とかお酌をしあって会話を交わします。
少し経つとまた違う相手のところに移動していきます。
いわば連続的な個別会談です。
しかも多くの場合、目下の者が目上の者の席を訪れて廻る。
だから移動して歩いている格下の者は料理が食べられません。
一方、丸テーブルの場合は、同じテーブルの同席者全員に向けた会話が多く、互いに会話が飛び交い易いように思います。
席を離れて歩き回る者はあまりいない。
お酒を勧めるのも、1人ずつお酌をして勧めるのではなく、互いに乾杯!といって双方が杯を乾しあう。
料理も誰もがシッカリ食べられる。

この話の中で注目すべき点は、天国、つまり神の国が「互いに自分の持っている物を分かち合う人々」のいる場所であることを示唆していることです。
つまり神の国は自己中心的な人々が自分の欲望を充足するために存在するのではなく、自分が他者と分かち合う世界であるということです。

人間が、大昔に畑や田んぼを使って作物を作り始めたとき、『しあわせ』を独り占めにしようとして、囲いを作って、畑や田んぼに垣根や柵をもうけたのかも知れません。
もしかしたら、今でも、何かを独り占めすることで、『しあわせ』を沢山手に入れられると思ってしまっているのかも知れません。
でも、一番 『しあわせ』を感じられるのは、独り占めしないで、他人と一緒に『しあわせ』を楽しむことなのかも知れません。

聖書が書かれたころは町は城壁に囲まれ、異邦人と交わることを禁じることでした。
神はそうすることで祝福の民を守ろうとされたのです。
ユダヤの民、特に律法学者やファリサイ人はその恵みを独り占めしようとしていました。

長い長い箸を使って、他人にしあわせを届けることが、独り占めにするよりも、沢山のしあわせを感じられる方法なのかも知れません。

「最も小さき者」とは、現在の私たちにとって誰を意味するのでしょうか。
私たちの身の回りのなかで、日常生活のなかで、日本社会のなかで、アジアにおいて、世界において最も弱い立場にある人々と私たちは自分たちが毎日享受している「平和」を分かち合っているのでしょうか。
もちろん、私たちがイエス様のように「最も小さき者」の一人になりきることは不可能かもしれません。
いいえ、残念ながら本当の意味では絶対に不可能です。
しかし不可能だからと言って、私たちが居直ってしまってはならないと思います。私たちが自己保身的になり、自己完結的になり、他者との関係を遮断してしまうことがあってはなりません。
マザーテレサは、愛の反対は無関心だと言いました。
日本社会、アジア、世界の問題に無関心になる時、主イエスは私たちに問いかけます。
「はっきり言っておく、私の兄弟である、この最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたのである。」(40節)と。
私たちはもう一度この主イエスのみことばに耳を傾けたいと思います。

私たちが神様によってすべて備えられている恵みに感謝すること。
神様への感謝の思いから自分達が愛されているように私達の隣人を愛すること。
それが私たちが絶対に避けては通れない死を乗り越えて永遠を手に入れるために必要なことなのです。

また「最も小さき者」と私たちが共に痛みを分かち合い、常に私たちのあり方、生き方としてそれらの人々の位置に立つ勇気を持つ者でありたいと思います。



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