日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 万全な備え 2008/11/16 夕礼拝 ホセア11:1-11

<<   作成日時 : 2008/11/16 23:33   >>

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神様はご自分の最も深い愛をイスラエルの生活の隅々まで注がれ、必要をことごとく満たしてくださいました。
そんな愛を神さまは私たちのそばで実践なさったのです。
彼らに神さまに愛され、カナンに定着するまでの長い年月を、養われてきたことを思い出すように、とおっしゃるのです。
時代背景をお話しなければなりません。
当時イスラエル王国はアッスリヤとエジプトという二大強国に挟まれて、対外政治が常に動揺していました。
国内では次々と王が代わって無政府状態に近い有様でした。そうした中で国民の道義も地に落ち、宗教生活は大変乱れていました。
神さまに愛されたイスラエルは自分たちが選びの民であるということを知っていました。
知っていたからこそ、荒野での放浪生活やカナン定住の苦労の中でも、神さまに支えられ、導かれていると信じていました。
しかし、カナンに落ち着くと、あっさりそれらを忘れ、カナンの神々に走ってしまったのです。
優れた農耕文化を有するカナンの諸民族に学びたいという気持ちも分からないではありません。
豊作の神であるバアルに願い、飢えや貧しさから開放されたいという気持ちも理解できます。
しかし、それは神様への裏切りであるばかりか、それまで唯一の神様を信じ、耐え忍んできたことを打ち消してしまうことになります
神さまの彼らへの愛は一体何だったのかということになります。
彼らを支えて来られた神さまとともに歩むこと、それこそイスラエルの取るべき態度だったのです。
その彼らに、エリヤから数えて 既に100年以上を、エリシャ、アモス、そして他多くの預言者たちが、神さまを指し示して来ました。
しかし、「神さまを求めよ」との預言者の叫びに、「さあ主に立ち返ろう」(6:1−3)と信仰告白を儀礼的な歌に置き換えて歌い、彼らは神さまから遠く離れていたのです。

「エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。」(3)とあるのは、そのことの繰り返しです。
「いやし」とはエジプトからの解放のことです。
つまり、預言者が何度も繰り返さなければならないほど、彼らは、自分たちに注がれた「父」の愛を忘れてしまっていたのです。
ここで、「知らなかった」とある言葉は別の訳の聖書では「忘れる」とあります。
人のした悪いことに対してなら、それは「赦し」となります。
しかし、人の善意や好意を忘れ、自分の悪いことを忘れるということは、罪の本質に触れる問題点です。
そしてこれは、現代に至るまで、私たちを含めたすべての人間に当てはまります。
私たちはそのように自分を甘やかして神さまから遠ざかって来ました。
それこそが罪なのです。

「彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ」とその背信の罪を責め立てていますが、それは1−4節の言い方を逆にしたものです。

ああ、エフライムよお前を見捨てることができようか。イスラエルよお前を引き渡すことができようか。
「わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」
9節で神さまはご自分の決意をこのように一度繰り返されます。
二度目の破滅に遭うことではないと、すでに決定された滅亡が撤回されたと見て良いでしょう。
<わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。>と言われます。
神さまの聖とは神さまが絶対他者であることを示すものですが、まさに<わたしは神>なのだと。
罪深い民をどうしても見捨てることができないのは、御自分が「聖なる者」(人間とはかけ離れた存在)だからだ、と神様は言われました。
人間ならば憤慨して見捨てるに違いない罪深い人々を、神様は赦し、求め、見捨てないのです。
そこに神様の聖(人間とはかけ離れた崇高さ)が現れるのです。
その神さまの聖を汚してしまったイスラエルを、もう一度その聖なる者に引き戻そうとしておられる。
これが赦しと愛の決意でなくて何でしょうか。
愛すことも、滅ぼすことも、ご自身の意思でなんでも自由にできる神が、赦すとおっしゃるのです。
しかも、それは決定しているというのです。
不安になることがどこにあるでしょう。

必要なのは過ちを悔い改め、神を受け入れるだけです。
御言葉を読み、祈る時は、聖なる神様に近づく時です。
神はどんなに罪深い人にも「怒りをもって臨みはしない」おっしゃる聖なる方なのです。

私たちが救いを受けたのは、まさにこの熱い愛の故です。
罪人に向けられたこの愛は、この世の愛を超えた特別な愛、神の愛にほかなりません。
神様は私たちを大きな愛で包んでくださっているのに、私たちはどうでしょうか。
その愛に向き合うことができているでしょうか。
大きな愛ゆえに、目を背けてしまったり、かまけてしまったりしているのではないでしょうか。


先ほどどんなときにも、という賛美をしました。
教会学校では毎週賛美しています。
「どんなときでも、どんなときでも、苦しみに負けず、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの、愛を信じて」。
幼稚で単純な歌詞です。
青い子供讃美歌にも掲載されていますが、あえてA4判に讃美歌21からプリントをしました。
高橋順子さんは福島県の生まれだそうですが、私とは直接の血縁関係はありません。
讃美歌の左上の作者の生年、没年をご覧ください。
おわかりになりますでしょうか。
この子の一生はたった7年でした。
最年少の讃美歌作家の作ですから、言葉が単純で稚拙なわけです。
彼女は幼稚園のときに骨肉腫を発病し、小学校に入って間もなくわずか7歳という短すぎる地上での人生を終えたのです。
この歌詞は、片足を切断する手術を四日後にひかえたときベッドの上で作った歌だそうです。
片足が無くなってしまう。
絶望の時にです。
彼女の言葉にイエス様の命が溢れていると感じます。
自分の命と向き合う備えがなされているのだと思います。

彼女は母親や教会学校の教師たちの祈りによって届けられた主イエスの愛が心に生きていたのです。
自分に言い聞かせるように書かれたこの歌詞に重い病気の中にあっても、なおキリストに支えられている、前を見る意思と希望を共に燃やし、彼女の歌は歌い継がれています。

神様の愛を受け取り、自分自身のものとしているからこそ生み出された賛美です。
喜びと感謝をもって神様の愛を受け入れ、神の国に入る備えができている歌詞だと思います。
そして、これを歌うとき、あたかも彼女自身が私たちの歌に参加して
エールをおくってくれているような思いが与えられます。

はたして私たちはどうでしょうか。
様々な悩みと悲しみの中で、口を開けば、嘆き、呻いた後、
いったいどのような言葉に行き着くのでしょうか。
最後に私たちが繰り返して言う言葉はどのような言葉になるでしょうか? 
はたしてこんな希望が語れるでしょうか。
今一度私たちの心を、信仰を点検し万全の備えをなしていきたいと思います。

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