日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 万全な備え 2008/11/16 マタイ25:1-13

<<   作成日時 : 2008/11/16 12:29   >>

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本日小児祝福式をしました。
幼子も救いを受ける特権が与えられているということ
弟子たちが子どもを遠ざけようとしたとき、イエスは弟子たちを叱り幼子を招きました。
イエス様は、親たちにも弟子たちにも「子供たちを私のところに来させなさい」と命じました。
この指示には親や弟子たちには「行かせる」義務があるとさえ受け取れます。
むりやりに「連れて来い」とおっしゃたわけではありません。
大人たちに、子供たちが「来たくなる」ようにあらゆる工夫をして来させなさいと命じておられるのだとおもいます。
さらに弟子たちに「とめてはいけません」とも強調されました。
子供たちが神のもとに来ることを大人が妨げるようなことがあってはならない。
もしあったとすれば、万全を尽くしてその障害を除きなさいということです。
ここでは子どもの救いに関して常に「積極的」であることが求められていると思います。
私たちの子孫の信仰継承も大切ですし、近隣の子供たちへの救いもまた大切です。
自分のことと同じように関心を持って生きたいと思います。

さて先週の火曜日は神学校の奉仕でした。
懐かしい思いで、奉仕に当たりました。
喜田川先生の授業の日でしたので、礼拝には喜田川先生がいらっしゃいました。
確か神学校3年生の喜田川先生の「時間の主であるイエス」についての授業の時のお話です。
その日はたまたま私と喜田川先生の一対一の授業でした。
そのとき私の中に無性に一つの疑問が湧き出てきまして、先生にこのように質問をいたしました。
先生、なぜ人間は眠るのでしょう。
神が神ご自身に似せて人間を造られたのであるならば、なぜ1日の三分の一も眠らなくてはならないように造ったのでしょう。
という崇高で哲学的な質問をしました。
決して難解で眠くなってしまう神学の授業を雑談に変えるための質問ではありません。

皆さんはどのようにお考えになられるでしょうか。
毎日、1日の3分の1も死んだように眠らなくてはいけないのは神の似姿として欠陥品なのではないか、と疑問に思ったからです。
もし、人間が眠らなくてもよければ、この後ペテロ達もゲッセマネで眠らなくてもよかった。
マグロのような回遊魚は、止まると死んでしまうので、泳ぎ続けながら食事をし、
泳ぎつづけながら眠るのだそうです。
後で調べたのですが、水族館にいるマグロも照明を消すと一定の低速で泳ぎ続けるのだそうです。
ならば人間も一日中動きつづければ、もっと効率がいいし、たくさんの仕事ができます。
もっと神様に喜ばれることができるかもしれません。
同じ休むにしても、死んだように眠らないといけないのは、不完全すぎるのではないだろうか。
獣とともに生活をしていた人にとって、夜は夜行性の猛獣との戦いの時であったはずです。
それにもかかわらず、夜になると眠くなります。

本当のところどうなのかは、神の国で創造の神に聞いてみようと思います。
喜田川先生は突然の私の質問に対して、瞬時に先生のお考えをこうお答えになられました。
眠る時は霊に会うとき、神様に会うときなのです。と。

聖書によれば、人が眠らないと神は人のあばら骨からエバを誕生させることはありませんでした。
サムエルは眠らなければ神の声を聞くことがなかったでしょう。
ヤコブは眠らなければ夢を見ることができませんでした。
ヨセフもベツレヘムで夢をみなければ、幼子とマリアと共にエジプトに行かず、ヘロデの手によって幼子は殺されてしまったでしょう。

肉体的な眠りというのは人間には必要なものです。
健康の為の3大要素は、「栄養」「運動」そして「睡眠」だそうです。
風邪を引いて、お医者さんにかかると、栄養を取って、暖かくしてゆっくり休んでください。寝てください。といわれます。
睡眠には、心身の回復と体力の節約という2つの役割があるのだそうです。

さて、前置きが長くなりましたが本日の聖書個所にも、「眠り」が出てまいります。
今日の箇所の祈りは、本来花婿を待たなくてはならない状況でのうたた寝です。
うたたね、というのはあまりよくありません。
授業中のうたたねも、説教中のうたた寝もよくありません。
どうせ休むのなら、しっかり休んでバリバリ励む。
このようにメリハリをつけるべきです。

今日のたとえ話には「おろかな乙女」と「賢い乙女」がでてきます。
しかもその面白いところは、眠ったから弱く愚かなのではなく、ともしびの油が切れてしまったからおろかだと指摘されます。


おとめが、花婿の到着を待っていました。
夕方か夜に到着する予定だったのでしょう。
おとめたちは、めいめいランプを持って、花婿の到着を待っていましたが、花婿の到着が遅れたのです。
譬えに出てくる「ともしび」は、銅か素焼きの器を棒の先に固定して油に浸した布切れを詰める、手燭のようなランプだったと考えられます。
それで、到着したころには5人のおとめのランプの油が無くなりかけました。
他の「賢いおとめ」のように、予備の油を壺に入れて持っていなかったのです。
それでこの5人は「愚かなおとめ」と呼ばれています。

しかし「愚かなおとめ」と呼ぶのは、少しかわいそうな気がします。
そもそも、花婿が到着する時刻は大体何時くらいと予め知らされていたはずです。
多少遅れるとしてもそんな予備の油を用意しなくてはならないほど遅れるとは当然思っていなかったと思います。
おそらく、花婿の到着が、予定よりも大幅に遅れたのでしょう。
聖書には、花婿は「真夜中に」到着したと書かれています。
ちょっとやそっとの遅れではなかったのです。
誰もそんなに遅れるとは思っていなかった。

油がなくなってきていることに気がついたおとめは、「賢いおとめ」に油を分けてくれるよう頼みました。
しかし賢いおとめたちは、「分けてあげるほどはありません」と答えました。
これを聞いて、「分けてあげれば良いではないか」と思われるかもしれません。
しかし決してこれは意地悪でこのように言ったのではないでしょう。
本当に分けてあげることができないほど少ししか持っていなかったのかもしれません。

ある本によるとこのところは、「分けてあげることができないもの」のことをたとえていると書いてありました。
では、分けることができないものとは何でしょう。
たとえば、「信じる」ということは、分けてあげることができません。
その人が信じなければどうしようもないことです。
賜物もそうです。

それで愚かなおとめたちは、夜中の町に出かけていって、油を買いに行きました。しかしその間に花婿は到着し、家の中に入り、婚宴が始まり、戸は閉められました。
しかも、愚かなおとめたちが戻ってきたとき、そこの主人が「わたしはお前たちを知らない」と答えて、中に入れてもらえませんでした。
そこには非常な厳しさがあります。
「知らない」とは、なんときびしい言葉であろうかと思います。
私たちがいよいよ、実際に天の国、神の都に入れていただこうとするときに、「あなたのことは知らない」と神さまに言われたらどうでしょうか?
こんなショッキングなことはないと思うのです。

皆さんは、レフトビハインドという映画をご存知でしょうか?
阿倍野教会では、この映画をみなで鑑賞会をしました。
ある時突然「携挙」が起こり、信仰者が姿を消す、という物語です。
世界中の信仰者が天に挙げられ、残された人しか映画には出てきません。
-恐ろしいことに、巡回伝道師がその携挙からもれていて、映画に登場するのです。
私は、神の国に入れない牧師が出てくる映画を教会で観るというのはどうなの、っていう感じでした。

このたとえ話に接して私たちがすぐに考えることは、自分はこのどちらのグループに振り分けられるのだろうかということではないでしょうか。
自分は賢いおとめのグループか、それとも愚かなおとめのグループか。
そして、あの人は愚かなグループだ、この人は賢いグループだなどと思い始める。
そのような読み方は主イエスがこのたとえ話を語られた意図を取り違えています。
もしそんな風に読みますと、私共は皆、不安になるしかありません。
自分は賢いおとめのグループに入ると自信を持って言える人はそうは居ません。
はっきり自分は賢いおとめのグループに入ると言える人がいるとすれば、きっと、あの人は愚かなおとめのグループだなどと人を上から見下して、裁き始めることでしょう。
逆に、自分が愚かなおとめのグループに入ると思う人は自信を失い、自分は救われないのではないかと不安になる。
賢いグループに入ると思う人は高慢になり人を裁き、愚かなグループに入ると思う人は失望し、不安になる。
どっちにしても良いことはありません。

主イエスがここでお語りになったのはそういうことではないのです。
天の国の大きな祝福を語られつつ、その大きな喜びなのだからと、油を用意しておくことを求めておられるのです。

主イエスは最後の13節で、「だから目を覚ましていなさい」とおっしゃいます。
どうして彼女たちは目を覚ましていなかったのでしょうか?
途中で眠ってしまったのは、愚かなおとめたちだけではありませんでした。
賢いおとめも眠り込んでしまったのです。
前の章の24章にも「目を覚ましていなさい」という見出しがあります。
そこでは主イエスが世の終わりのことについて語られたにもかかわらず、弟子たちは眠ってしまいました。
眠ってしまうには、賢いも愚かもない。信仰が強いも弱いもない。
眠くなったら、どうしようもないのです。
どうして眠らないでいいように創ってくださらなかったのかと嘆きます。
私たちは眠ってしまうのです。
主は「目を覚ましていなさい」とおっしゃいます。
決して「眠ってはならない」とおっしゃったのではありません。
何をするにも緊張して生きることではないのです。
こんなことをしていてはダメだ、もっと信仰に励まなければ、愚かなおとめ達の様に天国に入れない、そんな風に生きることではないのです。
主を待ち望むということは、もっとおおらかなことです。
主が来られる、全ては主の御手の中にある、だから大丈夫だ、
そういう健やかな歩みへと私共を導いていくのであります。
主イエスは、もっと熱心に、もっと真剣に生きよと言われているのではなくて、
私は再び来るのだから、安心して、その日に備えてなすべき務めをしなさい。
ということです。
私は、あなたに、そのような健やかな歩みを備えている。
そう告げられたのです。

私共の信仰は人に分けてもらったり、分けてあげたりすることは出来ません。
たとえ親子であろうと、夫婦であろうと、遺産として残すこともできません。

しかし、救われた喜び、祝いの筵へと招かれている喜びは分かち合うことができます。
伝えることができます。
これらは伝えれば伝えるほど、分かち合えば分かち合うほど深く大きく増えます。
あふれることがあっても決して減ることがない。
主イエスが来られた時に備えがなければ神の国の婚宴に入ることは出来ません。
しかし、私共はすでに婚宴の席にたとえられている神の国に入る者とされているのです。
この約束を受け取っているものなのです。
このことを忘れてはなりません。

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