日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 愛の戒め マタイによる福音書22:34−40 2008/11/9

<<   作成日時 : 2008/11/09 12:53   >>

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当時のユダヤの宗教を支配する二大勢力がこのファリサイ派とサドカイ派と呼ばれているグループでした。
他にも、エッセネ派、熱心党、などのグループがありましたが、彼らは少数派でした。
このサドカイ派というのは神殿に使える祭司たちを中心にしていた人々です。
ソロモン王を祝福した大祭司サドクの名に由来してサドカイ派と呼ばれているといわれます。
水曜日の祈り会では歴代誌で祭司やレビ人などを学んでいますが、もう少し後の時代に形成されたグループです。
このサドカイ派は紀元70年のエルサレム崩壊のときに消滅してしまいました。
現代の研究者たちはサドカイ派を神殿に拠って権力者たちと結託していた祭司のグループであったと考えられています。
これを指示する人々も貴族や特権階級に限られていたと言います。
ですから、彼らとイエスとの間で起こった論争はこのエルサレムの神殿の特権にまつわるものだったのです。
一方、今まで何度か論争してきたファリサイ派はこのサドカイ派に比べて、むしろ「町の宗教家」と言う印象が強い人たちです。
エルサレム崩壊の時にサドカイ派が消滅してしまったので、その後自動的にユダヤ教はすべてこのファリサイ派になってしまいました。
ご隠居さんのように一般の人々の生活を細かに指導し、面倒を見ていた人たちでした。
簡単に両者の違いを挙げるのなら、「神殿による権威主義的なサドカイ派」と「民衆の間にいることを目指した民主的なファリサイ派」といえるでしょう。

さて、今週もファリサイ派の人々が主イエスを陥れようと問い詰めるところからの学びです。
教会の暦では11月23日が年間最終主日となり、十字架の記事へと向かっています。
主イエス・キリストは十字架にかけられる直前、エルサレムで反対者たちと四つの論争をされました。
第一が皇帝へ税金を納めてよいかどうか、これは先週学びました。
第二が復活について、これはまた別の機会で学びます。
そして、第三が最も重要な掟は何か、これが今回のテーマです。
最後に、第四がダビデの子といわれるメシヤについての問いになります。
論争と言いましたが、どれも主イエスに反対する人々の言いがかりです。
しかし主イエスはそれを逆手にとって、ご自身のおっしゃりたいことをはっきりと宣言されました。

このファリサイ派という名称は、もともとは「分離する」という意味から来ています。
それは、「律法を守らない汚れた人々から自分は分離している」という意味です。
神様の目に自分たちは特別だ、という意識が彼らの根底にあるといえます。
彼らの宗教的な関心は、いつしか自分たちの生き方を誇り、他者を見下すという高慢な色あいを強めていってしまいました。
実はこれは神様のもっとも忌み嫌うことでした。
しかし、彼らは自分たちこそが神様に喜ばれると信じていたいのでした。

そのファリサイ派の中の律法の専門家である一人がイエス様を試そうとして質問をしました。
律法の掟の中で何が一番たいせつか、というのです。

イエス様は即座に旧約聖書申命記とレビ記からお答えになります。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの 神を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。と。

何度もこの箇所を読んでいるのですが、こんかい気がついたことがあります。
何をいまさら、浅はかだ、などとおっしゃらずに、分かち合ってください。
主イエスは、聖書の中で一番大切な掟と問われたのに、一つではなく二つのことをお示しになりました。

もし、学校のテストでもっともふさわしいものを選びなさい。
という問題が出されたのに、2つの答えを出したら、やはり×でしょう。
あまい採点者だったとしても満点はもらえません。

なぜ主イエスは二つのことをお示しになったのでしょうか。
それは、この二つのことが切っても切り離せないことだからです。
すなわち、主を愛することは隣人を愛することであり、隣人を愛することは主を愛することだということです。
逆に、主を愛することなしに隣人を愛することはなく、隣人を愛することなしに主を愛することはない、ということだとも言えるでしょう。
どちらにしても、この二つは切り離せないほど一つのことであるということでしょう。
表裏一体、という言葉がありますが、この場合はどちらも表です。
両A面といったところです。
甲乙つけがたいのではなく、両方とも甲です。
対になっているということができるでしょう。

神様との約束である律法全体と何十人もの偉大な預言者をつなぐキーワードとして主イエスはここで重要なことは「愛」であると強調なったのです。

この2つの掟は「同じように重要である」という言葉です。
原文では「ホモイア(似ている)」という言葉が使われています。
新共同訳のように訳すと「重要さの程度が似ている」ということになります。
また「2つの掟の内容が似ている」とも受け取れます。
神を愛すること、と、隣人を愛することは別のことではなく、1つのことだと言ってもよいのです。

では、「神を愛する」ということはどうでしょうか。
みなさんは神様を愛していらっしゃるでしょうか。
お祈りの最初に「愛します天の神様」と祈りを始められる方もおられます。
初めて教会に行ったときに、そう祈っている人がいたからそのまねをして、というのもあるかもしれません。
しかし私は段々その言葉が嘘っぽく感じられてきたのです。
私はクリスチャンホームではありませんでしたから、神を" 愛する"という概念がありませんでした。
若かったので、「愛する」という意味もよくわからなかったのかもしれません。
愛には責任が伴うことに気づいてそれは大変難しい事だと思ったのかもしれません。
実は長い間そう感じていました。
後になって、日本人にはそもそも「神様を愛する」という乏しいということに気がつきました。
そもそも、神様に愛されている、という感覚すらなかったのかもしれません。
神様が私を愛してくださったり、私が神様を愛したり、という感覚がないのだから、「愛します天の神様」なんて祈れるはずがありません。


マザー・テレサは、このマタイの箇所を受けてこう言いました。
「神を愛することが私達のうちに愛が生まれる根源であり、神を愛することは、誰でも願いさえするなら出来るのです」

テレサによると、私は神様を愛することを願うことすらしていなかったのかもしれません。


確かに、わたしたちはみな信仰者ですから、神を愛すること願い、愛すべきです。
聖書は、御子を信じる者は永遠の命を持つと言います。
信じることだけで十分です。
なぜなら、心を尽くして信じるようにとは述べていないからです。
しかしながら、神を愛することは、わたしたちの心、魂、思いを尽くすことを必要とするのです。


たとえば、「神である主を愛しなさい」ということだけであるならば、ある意味ではそれは簡単なことであるかもしれません。
「わたしは神様を愛しています」といえば、何となく神様を愛しているような気分になります。
私も、大して神様を愛していないにもかかわらず、「愛する天の神様」といっておけば愛しているような気がします。
一方で神様を愛していると言いながら、また神を礼拝しながら、もう一方では戦争をするということもあり得るわけです。
あるいは隣人を憎んだり、悪意を持ったりしながら、「でもわたしは神様を愛しています。イエスさまを愛しています」と言うことができてしまうのです。
しかし主イエスが、この二つの教えを一つのこととして言われた時、そんなことはあり得ないということになります。

ヨハネの第一の手紙の4:20-21には、次のように書かれています。
“「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。”
目に見える兄弟(隣人のことだと言ってもよいでしょう)を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない、と。
わざわざヨハネがこのように手紙で書き送っているということは、このようなことがその当時問題になっていたということです。
この問題は、今現在もある問題として私たちに語られているということもできます。
あるいは反対に、「わたしは隣人を愛していますが、神を愛することはできません」ということがあり得るでしょうか。

隣人を愛する人とはどんな人でしょうか。
たとえば私たちは、先ほども引用いたしましたマザー・テレサを思い出します。
マザー・テレサは、たしかに、誰もが見捨てて近寄らないような貧しい人の隣人になりました。
ではなぜマザーはそのような隣人を愛することができたのでしょうか。
マザー・テレサが語った言葉の中に、次のような言葉があります。
「わたしは信仰をなくすことよりも、命を失うほうを選ぶ」と。
このようなマザー・テレサの言葉を知る時 に、彼女を貧しい隣人への奉仕に向かわせたものが、信仰であることが分かります。
信仰であるということは、つまり神への愛です。
彼女は、貧しくて、食べる物がなくて栄養失調になり、あるいは病気にかかっても行くところがなく、道ばたで死を待つばかりの人の中に、キリストを見ると言いました。
彼女は神への愛によって貧しい隣人のところへ向かったのです。

そして、貧しい隣人に愛を示しながら、喜びと感謝をもって神に愛を表したのです。
私たちは、なかなかマザー・テレサのように生きることは難しいものです。
いろいろなしがらみがあり、家族があり、思いはあってもなかなか実行することができません。
そのような活動をしている人を尊敬し、自分とは別世界の人たちだと思うことがあります。
しかし、何も貧しい人、苦しんでいる人のためにボランティアをすることだけが隣人を愛するということではありません。
主は常に最も小さい者のひとりのために最善を尽くしてくださいます。
私たちはそれに倣い、主ならどうされるのかを祈り求めそのために働くのです。

神様も人間に何かをしてもらうことを必要としているわけではありません。
神様は無条件に人間を愛する方だからです。
その神の愛に気づき、感謝すること、これが神を愛することだと言えるでしょう。この神とのつながりを大切にする、と言ってもいいかもしれません。
そして、このように「神を愛する」ことは、必然的にわたしたちを「隣人を愛する」ことに向かわせるのです。
あるいは、神を愛することの具体的な表れが人を愛することだからです。

ファリサイ派の人々もサドカイ派の人々も、神に仕える思いあふれる人たちでした。
しかし、残念ながら人も神も愛さない人になってしまっていたのです。

神様に愛されているから、その愛を反射して、私たちは他の人を愛することができる。
そう言ったほうがわかりやすいかもしれません。
自分は神様にも人にも愛されていない、などという人はどこにもいません。
神様は等しく私たちを愛してくださるからです。
それは同時に神様に赦されているから、人を赦すことができると言い換えることができます。
赦しのないところに愛はありません。

わたしたちが日々の生活の中で、この2つの掟をどう生きているかを見つめてまいりましょう。


私たちに愛を示してくださった天の神様。主の十字架によって私たちはあなたの赦しを知ることができました。ありがとうございます。神にも人にも尽くしあいある生涯を歩むことができますように。

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