日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神に属するもの 2008/11/02夕礼拝 イザヤ45:1-9

<<   作成日時 : 2008/11/02 21:03   >>

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古代イスラエルには、権威ある立場に任命された人の頭に油を注ぐ習慣がありました。
旧約聖書を見てまいりますと、祭司か王様、預言者という人が油注がれた人です。
メシアはヘブライ語で「マシヤ」という言葉が使われております。
日本語では「メシア」です。
これが「油注がれた者」という意味です。
ヘブライ語旧約聖書には、このマシヤという言葉が39回出てきますが、ほとんどの英語訳ではメシアという言葉は2回しか出てきません。
残りの37回は「油注がれた者」と訳されています。

阿倍野教会に遣わされてすぐ、高橋牧師に油を注いでください。と祈られてすこし戸惑いました。
自分自身に油が注がれていいのだろうか、という思いがあったからです。
ただでも脂ぎった顔をして脂身ばかりの体をしておりますのに…。

さて、冗談はさておき、
新約の時代の今日では、油注がれた者というのは、聖霊によるところの油そそぎを受けた人という意味です。
そして神の代弁者として神の御言葉を語る者という意味です。

先ほどお読みしたイザヤ書ではキュロスを「主が油を注がれた人キュロス」と呼んでいます。
不信仰の結果として、イスラエル人は絶望のうちにバビロニアへ捕虜として連れ去られます。
イスラエルの人たちにとって、敵はバビロニア・ネブカドネザル王であり、ペルシャのキュロス王が味方になっているのです。
神は、夢にも思わない方法で、イスラエルを救出します。
この味方であるキュロス王が、ひとことで言えばイスラエルを(バビロニアの)捕囚から救い出します。
つまりイスラエルの人たちにとって、救い主となるのです。

異邦の国ペルシャのキュロス王に油をそそいで、このキュロス王を用いました。
それは、キュロスを通してバビロンの捕囚の身となっていたイスラエルが、そのバビロンを滅ぼしたのです。
結果として神様はイスラエルをお救いになったわけであります。
イスラエルの解放のできごとであります。

もちろんキュロスは異邦人の王です。
真の神ならざるものを神と異邦人ということです。
しかしキュロス王を神はユダの民を解放するメシアとしてお用いになられたのです。
従って、私たちはキリスト教的政権であるかないかによって、その政権が神に由来するかどうかを判断することはできません。
総理大臣がキリスト者になったからといって、日本の政治が変わらないように。
共和党から大統領が出ようとも、世界は大して変わらないのかもしれません。

仮に神に由来する政権であったとしても、神に背き神の支持を失うことがありました。
イスラエルの初代の王サウルはその例です。
しかし、失望してはいけません。
時として神は、ありえないということをなしてくださるのです。


この45章で繰り返し語られるのは、「わたしが主、ほかにはいない」というメッセージです。
3,5,6,7,8節と、何度も何度も「わたしが主」という言葉が繰り返されています。
私たちはそれに対して、9節にあるように、土の器のかけらにすぎないのに自分の造り主と争ったり、粘土が陶工に文句言ったりはできないのです。
ただ素直に神のみこころを受け入れるべきです。
なぜなら、神は我々に災いではなく祝福をもたらす方なのですから。
神が立てられたキュロスによってイスラエルの民は解放され、救われました。
しかし、全人類をこの世のあらゆる悪の力と罪から救ってくださったのは、神から油を注がれた方、主イエスです。
主イエスは、力によって諸国を平定する王としてではなく、苦難の僕として人々と共に歩み、人々の救いのために贖いの死を引き受けてくださいました。
革命ではなく、十字架によって神の平和を示してくださいました。

神は、この「イエス・キリストにおいて我々に語りかけてくる『生きて働く神』です。
悩み、失望し、生きがいを失った者を慰め、励まし、手を取って立たせ、共に歩む神なのです。
この希望の神を我々は必要としています。

少し先のイザヤ書55:9に「天の地よりたかきがごとく」 とあります。
先日も「神の条理と世の条理」と題してお話をしましたが、神の思いと人の思いとは天地の差があります。
午前中の礼拝でお話した「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というのもこの世のことと、神の国のことには隔たりがあるものです。

私たちの目には、あの人はとても救いのうちにあるとは思えない、
あるいは、あの人が持ちられるとは思われない、という人が神の目に尊いとされることがあります。
本来、サウロもそうでした。
サウロと呼ばれていたころ、彼が主を受け入れ大伝道者として用いられることを誰が予想したでしょう。
同じように、誰が自分自身は、救われるにふさわしいということができるでしょう。

わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたがあなたは知らなかった。 日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになるわたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。 光を造り、闇を創造し平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。
この活ける神以外に誠の神はおられません。
この宇宙の存在する一切の創造者なるこの活ける神がキュロスを立てて、神の選民イスラエルを救うのだと言われるのです。
そして「光を造り、闇を創造し平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」 とあります。
しかし、光よあれ!と言われ、神が光とやみとを創造され、この宇宙に存在する全てのものを神様は創造された。
平和を造り、わざわいを創造される。
美しい花も、このわたしをも神様はお造りになられた。神の創造の業でありますから、私達は自分がどうであっても文句は言えないわけです。
どうして 神様はこんな者に造られたのですか、と文句を言えないわけです。
神はご意志をもってご創造された。
その神の業に対して神様に文句等言えるはずがあるありません。
神に造られた存在であり、こんなにすばらしい御愛の御手の中にあるのだということが判りますときに、それこそ猿から進化した者ではなく、神が人格を与え、私達をご創造下さった。
そして今日も生かしてくださっている。
神に栄光を返すために。
命を与え、命(令)を与え、喜びと感謝をささげるために。

神の哀れみに感謝をしましょう。


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