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zoom RSS 神に属するもの 2008/11/02 マタイ22:15-22

<<   作成日時 : 2008/11/02 12:07   >>

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本日の箇所で、ファリサイ派のユダヤ人たちは主イエスに質問しました。
「どうお思いでしょうか、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
そのとき、普段は一緒にいるはずのないヘロデ派の人々と一緒でした。
ヘロデ派とはヘロデ王の支持者で占領者ローマに協調的な考え方をもっていた人たちでした。
当時このあたりはローマ帝国の支配下にありました。
ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、高額な税を徴収していました。
ローマ帝国は1民族1宗教は認めるということで、改宗を強要しませんでした。支配される側も最後の民族のよりどころが残されているので、おとなしく従っていたのです。
しかし、ユダヤ人にとって徴税の問題はただ単に経済的な圧迫という問題ではありませんでした。
「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないという宗教的な葛藤があったからです。
ですからユダヤ人の中にはローマ皇帝への徴税も認められないという考えがありました。
主イエスが生まれた頃には、この問題のために反ローマ闘争も起きています。

皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。
この質問に主が「律法に適っている」と答えればユダヤの律法を軽んじたとして攻撃されたでしょう。
つまり「神に背く者」という烙印を押して、堂々と追放することができるのです。
逆に「適っていない」と答えればローマから危険人物として逮捕されるという構図が出来上がっていました。
どちらにしても主イエスの立ち位置をはっきりさせて、危険な目にあわせようというワナでした。
どちらが右でどちらが左か、と言ってしまうのはまさに極論ですが、彼らは自分の思いと違う答えをすればすぐ吊るし上げようと企てていたのです。

「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」(16節)。
わざわざ、こんな前置きをおいています。
これは言葉遣いとしてはていねいですが、実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅しです。

ところが、主イエスは当然彼らの悪意に気づいておられました。
そこで、税金に納めるデナリオン銀貨を持って来させました。
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」
イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
当時使われていた銀貨の表面には皇帝の肖像と銘がありました。
その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」というもので、ローマ皇帝を神のようにあがめているものでした。
税金としてローマにささげるのはこのローマの通貨でした。
イスラエルの宗教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことが許されないものだったはずです。
しかし、実際には誰もがその硬貨を使わざるを得ませんでしたし、神殿の中にも持ち込まれていました。
少し前では神殿にささげるためにいけにえを売り買いしたり、両替したりしていたのを主は戒めました。


先日、この箇所を読んでいながら、ひとつ気がつきました。
それは主イエス様がそのデナリオン銀貨を持っていなかったということです。
たいしたことでもなさそうですが、メッセージがこめられているのではないでしょうか。
当時いちばん流通していたお金だったようですから、主イエスはまったくこの世のものにとらわれない生き方をしておられたということです。
イエス様はデナリオン銀貨を手に握らないことで、自由な心を手にしておられたとも考えられます。
そういえば、弟子たちを派遣するときにも持ち物の制限をされていますが、主イエス自身何もお持ちでなかったのかもしれません。
一方、ファリサイ派の人々とヘロデ王のシンパ(応援者)たちは、デナリオン銀貨を手に持っていました。
彼らはイエス様にデナリオン銀貨を示したからです。
この人たちは、心ではローマ皇帝に税を納めることを嫌っていたのに、そのお金を手に持つ、そのお金にすがって生きることは納得していたのです。


そして主は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」といわれました。
律法に適っているか否か、という質問に直接答えることはなさらなかったのです。
陰謀家たちはこれを聞いて驚き、主イエスをその場に残して立ち去ったとあります。
ちょっと妙な幕切れです。

このイエスの言葉はあまりに短いので、さまざまな解釈の可能性がありえます。「イエスは政治と宗教の領域を分け、政治問題には関わらないようにされた」というのもその一つです。
当時のユダヤでは占領者ローマの勢力と、それにおもねるヘロデの一党、それに対する反対運動、運動というよりはテロ活動による抵抗闘争がありました。
ゲリラ闘争です。
彼らは水と油、まったく主張を相容れない関係にありました。

そんな中で多くの宗教家たちの活動もまた否応なく、占領者の側につくか、ゲリラ側につくかを迫られていました。
どちらのグループからも主イエスの存在は疎ましいものでした。
メシヤが来てくださって、助けてくださる、というのもすぐれた革命家を待ち望むということと同じ意味を持っていました。
革命家がでて、国家がひっくり返されてしまうからこそ、ヘロデ大王は幼子の誕生を恐れたのです。
メシヤがダビデの子孫から生まれるという信仰も、イスラエル国家の独立と繁栄を往時のダビデの治世に見たからに他なりません。
政治か、宗教か、あるいは異なった政治的立場のうちどちらか、という二者択一を迫られるのが、当時の民衆の上に立って指導する者の運命だったと言えます。

しかし、主イエスは本当にそんな意味でこうおっしゃったのでしょうか。
このような考えはあまりにも近代的な考えで、古代ではおよそ考えられなかったことかもしれません。
近代になって「政治の領域」と「宗教の領域」を分ける考えが生まれます。
それ以前は、人間の現実すべてが神との関係の中にあるというのが当然でした。
占いによる政治、まつりごとは奉りごととしていました。

これが、もし主イエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への 納税は正当であることを認めたことになります。
しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、主イエスはもっと根本的なことに人々の目を向けさせているのです。
ファリサイ派が問題にしたのは、人間の現実とは無関係な「神学的問題」でした。彼らは自分たちも解決できない神学上の問題を持ち出してイエスをおとしいれようとしたのです。
しかし、イエスは現実の人間の苦しみを忘れてそのような神学論争に没頭していたファリサイ派の姿勢を批判してきました。
「納税問題が神の問題なのか? 神の目から見て、本当に大切な問題はなんなのか」イエスはそう問いかけているのではないでしょうか。
「神のものは神に」=「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているか」それは、わたしたち一人ひとりに向けられた問いでもあるはずです。
もし主イエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税は不当である、ということになるでしょう。
世の中はそれでは回りません。

いったいイエス様はデナリオンの銀貨を示して、政治を否定して宗教をお選びになったのでしょうか。
それとも政治も宗教も肯定なさったのでしょうか。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という言葉からはどちらも否定していないようにも聞こえます。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という返答は言い換えると「この世のことはこの世の基準で、神の国のことは神の国の基準で」となります。
そして、この世のことは、この世の智恵を用いていいのです。
しかし、その背後にはあの世の力が働いているのだから良いと思う決断をして最善の努力をすることが許されていると考えるべきです。
つまり、主イエスのなさった答えは、形の上では政治と宗教の両方を肯定しているようでいながら、宗教的なものをしっかりと打ち出しておられるのです。

皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものと考えられていました。
では 神の像はどこに刻まれているのでしょう。
それは一人一人の「人間」だという考えもあります。
創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるからです。つまり、主イエスは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神に帰属するものであり、神以外の何者にも冒されてはならない」と言っているのではないでしょうか。




あなたがたはしぶしぶでもローマ皇帝の命令に従っているではないか。
この世の王に従うのなら、ましてあなた自身の王である神には、もっと忠実に従うべきではないのかというメッセージです。


もっと大事なこと、心に刻まれている肖像と銘に、細心の注意を払うようにと促したかったのです。

「神のものは神に返しなさい」。
この答えのもうひとつのポイントは「返す」という言葉にあります。
つまり借りがあるから返さなければならない、ということです。
彼らは支配されてはいましたが、またローマによって他からの侵略から守られ、ローマの道路、ローマの通貨によって商売もしていたのです。
パックスロマーナです。
従って、ローマに対して負い目があるのです。
それは税という形で返さなければならないものだと主イエスは言うのです。
この世の王であれば、貨幣に自分の像を描くことぐらいはできるでしょう。
それを皆に配って、また自分に納めろと言うことすらできるかも知れません。
地上の宝は地上の権威者に返しなさい。

同様に、地上の権威者であるローマにだけ負い目があるのではありません。
神に対しても私たちは負い目を負っています。
それはローマに対する負い目よりはるかに大きいものです。
そのしるしとして私たち一人一人の人間には神の像が刻まれているのです。
人間は神の形に似せて創られたと創世記は述べています。
自分を鏡で見ると神の似姿がわかります。
私たちは、言ってみれば、神様に名前を刻まれ、神様に命を与えていただいたのです。

私たち自身は神にお返ししなければならないものだと主イエスは言われます。
私たちの心の奥底に名前を刻んで、命を与え、命を呼び戻すことはできないのです。
それはただおひとり、神様だけができることです。
どんなにがんばって、自分でこの世を生きていると言っても、だれも自分の命を延ばすことはできません。
神様が決められたときに、神に呼び戻されるわけです。
そうであれば、私たちは何よりもまず、神に与えてもらったものを神に返す生き方に、いちばん気を配らなければいけないのだと思います。
それは、「私のものは私のもの」という考え方から、「私のものは、神様のもの」という考え方に、移ることと言ってもいいかも知れません。
「私のものは私のもの」そう言っているあいだは、きっと与えられた時間を神様のために、また人のために使いたがらないと思います。
神様に声を上げる祈りも、神様の声を聞く聖書朗読も、神様に教えていただく学びも、惜しいと思って、時間を割かなくなるかも知れません。

最後に逆に神のものでないものがあるのでしょうか?
この私の存在も神から与えられたものです。
この私が今日まで生きて来られたのも、目に見えないところで神のみ手と恵みがあったからにほかなりません。
一瞬一瞬の存在を養っていて下さるのも神以外にはありません。
使徒パウロは「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」と言っています(1コリ4:7)。 

何でも神様のものです。
私たちのものは罪だけです。
私の中にある悪や罪は、この私に由来するものです。
そしてその罪・悪をも神は主イエスの十字架によって取り除いてくださいました。
「神のものは神に返せ」と言うことは、先ずこの事実をしっかりと自覚することです。
そうすると見えてくるものがあります。
それは謙遜と感謝そして喜びです。

今週も喜びのうちに歩んでまいりましょう。

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