日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 救いはどこにあるか マタイ15:21−28 2008/9/7

<<   作成日時 : 2008/09/07 08:41   >>

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先週、私たちはイエス様が群集を帰らせ、弟子たちを船に乗せて一人で祈られた、という話をしました。
他にも主イエスが一人で祈られたという記事が書かれているとご紹介しました。
本日も、主が一人で祈られた箇所です。
しかも、わざわざ異邦人の土地にまで行っていることがわかります。
「ティルス」「シドン」はガリラヤの北、シリア・フェニキア地方に位置する異邦人の町です。
ティルスはギリシャ語で砦という意味です。
BC1000年ころにフェニキアのヒラム王が沖にある3つの小島をつないで海の中に高さ45mの砦を造ったのが名の由来だそうです。
BC332年にはアレキサンダー大王がこの砦を攻めるための橋を造って7ヶ月を費やしてついに征服しました。
やがてこの橋に土がたまって島は陸続きになったのだそうです。
一方シドンはティルスから車で4・50分のところにある町です。
ギリシャ語では魚という意味で、現在ではアラビア語の魚の意味のサイダとも呼ばれています。
フェニキア時代から続くヨルダン第3の都市で、現在では人口25万人、イスラム教徒の多い町です。
いずれも紀元前15世紀頃からの都市国家で世界遺産にも認定されています。

そこで生まれたカナン人が今日のお話の主人公です。
説教の主人公はイエス様ですけど。


当時のユダヤ社会において異邦人や病人、律法を守れない人は「罪人」として差別の対象でした。
自分がこの人たちから遠ざかることこそ救いに近づくことでありました。
この人たちと話をすることなど、考えられないことでした。
今から考えるとすごい差別です。
しかし、このことを念頭に置きながら聖書を読まなくては、イエス様の言動をきちんと理解することはできません。

主イエスのところに、異邦人の女が尋ねてきます。
自分の娘が悪霊に取り付かれていてひどい、哀れんでほしいと。
弟子たちはこの女を制止します。
弟子たちの役回りは、いつもそうです。
主イエスの所に子供たちが集まってくると止め、ガードマンやSPのようです。
子供たちは罪人とは違いましたが当時の考え方では取るに足らないものでした。
ユダヤの常識から言えばそれは当然のことだったのです。
この当時の宗教指導者は、この人たちと話をすると自分自身が穢れてしまうと考えていたからです。
自分が穢れてしまうことは、神に喜ばれることではないと考えられていました。

主イエスをたずねてきた女性は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫びました。
彼女の娘は悪霊にひどく苦しめられていました。
彼女には夫はもういなかったという解釈もあります。
いずれにせよ、苦しむ娘を抱えて、彼女は主イエスのところにきました。
「叫んだ」というのは、継続を意味する動詞形で書かれていますから、「叫び続けた」のです。
「わたしを憐れんでください」。
詩編によれば、この叫びは死の床の中で、あるいは敵に苦しめられる中で叫ばれています。
悩みが大きければ大きいほど、祈りの叫びは短くなります。
娘の苦悩、家族の悩み、あるいは死の恐れ、敵を持つ悩み、将来の不安、私たち自身の無力、「主よ、憐れんでください」。
これは、私たち自身の祈りです。
その訴えに対して、「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」。
御言葉がなかったのです。婦人は悩みの中で主の沈黙に会いました。
イエス様は、沈黙によって答えられたのです。

私たちが祈り求めるとき、時として答えが与えられないことがあります。
そんな時、落胆して祈ることすらやめてしまうことがあります。

しかし彼女は主イエスの前にひれ伏し「主よ、助けてください」と訴え続けます。
そして、やっと主イエスの言葉は「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と答えられました。
これは明らかに、拒否の回答です。
この主イエスの態度は、あるいは多くの人々を躓かせるかもしれません。
むしろ、耳を疑うような主イエスの御言葉です。
我々が知っている主イエスは、人々の苦しみを決して放置できない優しい方でした。
主イエスの目的は、苦しむ人々に希望のメッセージを伝えることでした。
助けを求めてすがり付く人に対して、主イエスはその求めに応じて助けの手を差し伸べるはずです。
それにもかかわらず、今日の物語の中で、主イエスはなんと冷淡なのでしょう。

婦人は、長い間主の沈黙に会い、そして その挙句今度ははっきりした拒否に直面したわけです。
これでもう話は終ったということではないでしょうか。
あとは信仰の躓きと失意のほかにないのではないと思います。

沈黙と拒否の経験は、私たち自身の信仰生活にもないことではありません。
礼拝で取り次がれる神の言葉が自分の悩みに答えてくれない。
どんなに祈っても自分が思い描くとおりにならない。
それは誰にもある経験です。
一体その中で、なお神の御言葉をどう聞けというのでしょうか。
「イスラエルの家の失われた羊」に救いは伝えられ、「子供たちのパン」を取って 子犬にやってはいけない。
それでは私の娘はどうなるのです。
そして私自身も。

この記事はマルコ福音書にも登場し、内容はほぼ同じです。
この物語を記録したマタイの意図は、イエスがイスラエルの救いだけでなく、外国人、しかも違う宗教を持つ人に対してもその救いの業が広がったということかもしれません。
イスラエルの人々にとって、外国人や他の宗教を信じる人のことなどにはいっさい関心が無ありませんでした。
彼らはイスラエル民族以外のことは自分たちの守備範囲ではないと感じていたからです。
さらに言えば、彼らにとって「世界」とは自分たちの民族のこと、イスラエルのことでした。
他民族や他の宗教に属する人のことは文字どおり念頭に無かったのです。
いまでこそ、世界に福音が広められています。
キリスト教以外の神様が深く浸透している土地、未開の地へと宣教が広められています。
平原宣教師の働きもそうですし、ギデオン協会が世界中の原語に聖書を翻訳して配っていることもそうです。

では想像してみましょう。
たとえば、イエス様が一人で祈っているところに、宗教真光の人がやってきて、いまここに集まっている人よりも先に子供を助けてくれ、と言ったとします。
どう思うでしょうか。
イエス様が一人で祈っているところに、犯罪者テロリストがやってきて、まず自分を助けてくれ、といったとします。
私たちはそれを見てどう思うでしょうか。
主イエスの愛に限定や限界はないけれど、まずは私たちの祈りを先に聞くべきだ、と思うのではないでしょうか。
こうした状況を理解すれば、この出来事の重要性が見えてくるのではないでしょうか。
このマタイの福音書が書かれた頃、異邦人の地において異邦人に向けてどんどん福音が広まっていました。


ここである人は、主イエスは初めからこの女性の訴えに耳を傾けるつもりだったが、
どれほど熱心なのか、どれほど切実であるのか、その信仰を試したのだ、と解釈します。

しかし、まず、「イスラエルの家の失われた羊」の世話をするということを理解することが必要だと思います。
「イスラエルの家の失われた羊」とは、神の民の中にあって、打ちひしがれ、虐げられ、希望を失ってしまっている人々のことを指しています。
つまり、イスラエルが、ふたたび神のもとへ立ち返るため に働くという使命の重要性、緊急性がいかに明確であったのかを理解する必要があります。
イスラエルは神の救いの約束を受けた民であり、救いの歴史の立役者として初めから神と共に歩んできたのです。
主イエスにとって、その契約の民、神の民である人々が正気を取り戻すことが第一の目的であったでしょう。
これは、同じ民族に対するえこひいきということではありません。
そこには緊急性があります。
弟子たちを派遣する時にもイエスは、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」と命じていました(マタイ10章5〜6節)。

神の民であるイスラエルは、神様がどのように人とかかわりを持ってきたかを知っています。
同時に、イエス様ご自身が世の初めから救いの歴史に参与しているという意識の現われでもあります。
一方異邦人はそのことを知りません。
イスラエルの民は、異邦人と交わることがありませんでしたから、神の愛など伝えるはずもありませんでした。
たとえ伝えたとしても、救いに預かるのは私たちイスラエルだ、という伝え方でした。
しかし神の愛はそうではありません。
異邦人たちが悔い改めるのではなく、まず初めにイスラエルが悔い改めるべきだという強い確信が読み取れます。

主イエスにとって今すぐ行うべき課題があり、それは神の救いの歴史そのものでした。
希望を失ってへたり込んでいる人、不条理な決まりや偏見、差別によって苦しんでいる人々のもとに一刻も早く駆けつけたいという切迫した思いでした。

では、なぜ、異邦人は後回しなのでしょう。
いつになったら異邦人にまで福音が伝えられるのでしょう。
それは、異邦人は律法、つまり神様と人間との関係を知らないのです。
神様の愛による「本当の救い」を知らないのです。

イエス様の当時、悪霊の働きによる病や、悪霊に取り付かれた人というのがありました。
いいえ、現在もあって、私たちが霊的に弱ってしまっていて、わからないだけかもしれません。

主イエスがもたらした福音のメッセージは、イスラエルであるとか、神の計画であるとか、そのようなものを越えたところで、今ここで苦しみ救いを切望する一人の人間のためにこそ救いは存在するともいえるでしょう。

私たちは、神の御国の全き到来まで、なお神の助け、憐れみを求め続けます。
信仰生活に試練があり、課題がなおあり続けます。
人生の労苦もそうです。
信仰者は神の御業を求め続けます。
しかし私たちは神の御業を受け取る前に、すでに主ご自身を受け取っています。主の助けがなお与えられないとき、すでに主ご自身を与えられ、主に結びついている。
これが御言葉の聞き方ではないでしょうか。
失意に警戒してください。
期待していることが起こらないことに、失望すべきではありません。
願っている通りの御言葉が与えられないことにも失望すべきではありません。
御言葉によってすでに主ご自身に捕らえられているではありませんか。
あの婦人は、主の沈黙の中でも、拒否の言葉の中でも、主ご自身に捕らえられていました。
それが神を正しいとし、信頼を寄せ続けられた理由です。
主を一点に見つめて委ねていたのです。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。
あなたの信仰は立派だ、あなたの信仰は大きいというのです。
それは、私たちの側から言いますと、主イエスに信頼を寄せる以外に何も持っていない信仰です。
しかし主の御業を受ける以前に、主ご自身に捕らえられている信仰です。
主イエスが捕らえ、主にあって神の愛が捉えてくださったとき、その主から私たちを引き離す何ものもないと聖書は告げています。
何をしたから、どれだけ奉仕したからではありません。
どれだけ求めたか、どれだけ祈ったか、どれだけ信頼したか。
失意に陥ることなく、信じ、祈り続けることを。
御言葉を聞くことは、御言葉と共に主イエスご自身を経験し、主に捕らえられていることです。
その信仰を主は「あなたの信仰は立派だ」とおっしゃってくださいます。
そして「あなたの願いどおりになるように」ともおっしゃってくださいます。
私たちにご自身を与えてくださる神が、その御業をなさらないはずはありません。この御言葉を聞いて、信じて、受け入れるものとなりたいと思います。
救いはここにこそあるのですから。



どんな状況下にあっても、主に信頼しより頼むことができますように。祈り願い、叫び続けることができますように。



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