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zoom RSS 信仰の鍵 マタイ16:13−20 2008/9/12

<<   作成日時 : 2008/09/14 08:13   >>

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東大医学部教授の古川敏之先生の「高齢化社会の設計」という本の中にこのように書いてありました。
「楽しい老後などはない。身体機能は確実に低下するからだ。象は老衰で死ぬのではなく歯が磨り減って食物を摂れなくなって餓死するのである。また知的機能は60歳までは減退しないが、85歳以上では30%は痴呆になる。精神的には周囲への関心が減って、現実しか信じなくなり、心の冷えのようなものが現われてくる。」
と、このように老人特性を記しています。
敬老などといっておきながら、気持ちのめいってしまうような話であります。
周囲への関心や興味の低下、感動の薄さなどは「うつ病」の特徴です。
痴呆だと周囲が思っていたら老年性うつ病であったというケースも多いと聞いています。
古川先生は長寿のための健康面の安全因子として「血圧が低いこと。やや太り気味であること。たばこをすわないこと、外の世界に積極的関心を持つこと」の4つを挙げています。
さらに精神面からは「定年後の人生に上昇気流などはないのだから、競争心や独占欲をすてて、優雅に遊びを楽しむべきである。遊びとは長寿によって受ける長い自由な時間を利用して「文化の育成に貢献し、生き生きとした証を残すこと」と結論づけています。
ようは、加齢とともに伴ってくる機能的低下などの避けられない事柄に対しては思い煩わず受け入れてゆくことがとても大切だということでした。
「昔はこんなこともできたのに」と過去の自分と競争して争わないことも大切だそうです。
下を向いて、「人様に迷惑をかける」「お世話される」という受身型の人生を生きるのではありません。
積極的にさまざまな文化活動にすすんで参加し、自分の世界をできるかぎり広げてゆく「心のありかた」が求められていると思います。
長老が教会にいるということの安心感、子供が教会にいるという希望、それが教会の豊かさであると思います。
教会には長老を敬うことと同じくらい、長老にお願いすることがあります。
教会のために、信徒一人ひとりのために、地域の救いのために祈るということです。
これからもよろしくお願いいたします。

さて、長女がまだ、まだ1歳になったばかりの時でしょうか。
私の実家の前に車を停めて、エンジンをかけたまま、トランクの荷物を下ろしていたことがありました。
当時は今のようなワンボックスカーではなく、セダン型に乗っていました。
歩き始め世界が広がってきた娘は丁度いたずら盛り、好奇心旺盛の頃であります。
ニコニコしながらドアのロックを内側から閉めてしまいました。
慌てて気がついて、窓越しにロックをはずす様に指示をしたのですが、なかなかロックを外すことができません。
車のドアロックは、ボタン式ですから、ロックをするときは押せばいいのですが、はずすときには引っ張らなくてはなりません。
まだ、年齢的にもロックのボタンを引っ張るのは難しかったかもしれません。
緊張の時間が過ぎていきます。
周りの大人達は、車の中の娘に向かって大声で叫びます。
車に乗っていてドアのロックをはずしたら、いつも注意していました。
そう思ったに違いありません。とうとう泣き出しました。
こうなるともう交渉決裂です。
私の母は、親の責任だ、どうするつもりだ、と私と妻を詰ります。
周りの大人達は、互いに「落ち着いて、ニコニコして」と声をかけあいました。
そして、今度はドアのロックではなく、窓を開けさせるように指示をしました。
普段、車に乗っているときには、窓をいたずらしても叱られますから、なかなか思うように窓を開けてくれません。
少し開けては、周りの大人が、「よし!」などと声を上げます。
娘はその声に驚いてまた閉めてしまいます。
何度か繰り返しながら、やっと外の大人の手が入るくらいに窓が開けられ、娘は無事救出されました。
時間にして15分くらいだったでしょうか。しかし、とても長く感じられました。


さて、本日の箇所は、教会形成の基礎となるとても有名な箇所で、献堂式や旅に出るときに読まれるようです。
マタイの福音書はユダヤ人キリスト教徒の為に書かれたと何度かお話しました。
主イエスが約束された救い主であるということを一貫して強調しています。
そして主イエスが律法のさだめる「ダビデ王の子」であると宣言し、教会に関することがらを繰り返していることにあります。
旧約聖書におけるヒーローはダビデ王です。
そのダビデの子として、この世に来られたということは、旧約聖書を成就する者として主イエスを描いている事などからも推測することができます。
ですから、福音書の冒頭に系図がおかれ、ナザレのイエスといわれた人物がどのような血筋なのかを明らかにしているのです。
もう一つ、マタイの福音書の独特なのは、ペテロを十二使徒の中の最優位においていることだと思います。

主イエスは、ある時、弟子達を連れて、フィリポ・カイサリヤという地方に行かれました。
そこは、ヨルダン川の水辺の静かな所でした。
主イエスは、誰にも煩わされずに、弟子達とゆっくり話し合いたいと願われたのでした。
先週も先々週も、主イエスは一人になりたいと思っておられた、という箇所からお話をしました。
同時に弟子達と交わりたい、分かち合いたいと思われたのであります。
そこに着くと、主イエスは弟子達に、「人々は人の子を何者だと言っているのか」と尋ねられました。
主イエスはご自分の事を『人の子』と呼ばれていました。
歴史上では、この「人の子」が『神の子』という意味を持ったのは、もっとずっと後の時代だといわれています。
「人の子」はこの当時まだ「人の子」という意味しか持っていませんでした。

主イエスは、大切でありがたい御言葉をくださり、神様にしかできないような癒しの業をされるお方です。
弟子達によると、人々は、主イエスを非常に高く、評価しておりました。
しかしまだ神のみ子、救い主だと信じる者はいなかったようです。
人々は自分たちの知識の中で、主イエスを表現しようとしました。
『バプテスマのヨハネ』は当時、民衆が非常に尊敬していた預言者です。
主イエスご自身もヨルダン川で洗礼をお受けになりました。
ヨハネはヘロデ王の行動を批判して、殺されてしまいました。
次に名前を挙げられた『エリヤ」と『エレミヤ』は預言者達の中でも、最も偉い人達だと思われておりました。
エリヤは列王記によると終末の前には再来すると信じられていました。
この時点で人々は誰も主イエスを、人並みならぬ神が係りの指導者だと認めていました。

主イエスは、次に、「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と弟子たちに訊かれました。
弟子たちにこんな質問をされた主イエスでしたが、人々が、ご自分の事をどう思っているかは、当然ご存知でした。
この質問は、むしろ、弟子達に、「さて、私はイエス先生をどう考えているのだろうか」と考えさせるためでした。
突然、質問された弟子達は言葉につまり黙ってしまいました。
弟子たちは目の前で奇跡が起こり、病気が癒されていくのを目の当たりにし、神の国の教えを聞いていたからです。
沈黙が怖かったのか弟子達を代表して、ペテロが答えました。
「あなたはメシア、生ける神の子です」。
はい、正解です。
これが、正しい答えでした。
主イエスは、神の子であられるご自分を、人の子と呼ばれました。
ところが、ペテロは、人の子であられる主イエスは、実際は、神の子であられる、と宣言したのです。

主イエスは、人間を全ての罪から救い出そうとしてこの世に遣わされた救い主、キリストであられます。

主イエスは、ペトロにおっしゃいました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」。
これはペトロが正解を出したご褒美、賞品でしょうか。
ペトロが天国の鍵を授かった理由を聖書は書き記しているのかもしれません。
天の国の鍵。神の国の鍵です。
「鍵」というものは、それがないと中にはいることができないものです。
ですから「天の国の鍵」とは、天の国とは入ることができるところだということを大変よく表していると思います。

まず分かることは、天の国にはそのまま入ることができないということです。
もちろんイエスさまがおっしゃる「天の国」とは、日本語で言うところのいわゆる「あの世」のことではありません。
つまり、死んだあと行く場所ということではありません。
福音書を書いたマタイは、天の国はこの世における教会の姿であると描いています。
ですから主イエスがおっしゃる天の国というのは、私たちが死んだ後に限定されるものではありません。
私たちが生きているうちに、天の国に生きることができるものだということです。主イエスが次のようにおっしゃっています。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ここでは、天の国とは、あなたがたの間にある、つまりあなたがたのすぐ隣にあるというのです。
神様の支配されるところは私たちのすぐそばにあるというのです。
天の国は、イエスさまとともに、わたしたちの所まで来ているのです。
それは主イエスがおっしゃっているように、目で見える形ではありません。
しかし確かに来ている。わたしたちのすぐそばに来ているというのです。

そうすると先ほどの、車のキーをしたままドアを閉めてしまった出来事ににていると思います。
自分の目の前に車があり、窓越しにはキーが刺さっているのが見える。
鍵の側に幼い娘がいる。
しかし、ロックがかかっていてどうしようもない。
主は天の国は、私たちの目の前にあるとおっしゃるが、この肉の目には見えない。
しかし確かにあり、そして確かにすぐにでも入ることができるのだ、ということです。

ではその私たちの肉の目には見えない天の国の鍵はどこにあるのでしょうか?
私の娘が天国の鍵を握っているという話ではありません。
それは、主イエスのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、天の国の鍵を授けられたのです。
これが天の国の鍵です。
これも肉の目には見えない鍵です。
しかし確かにそれが鍵であるということです。

実は、この個所は、キリスト教会にとって、解釈が大きく分かれる個所です。
カトリックとプロテスタントが、この個所の理解の仕方で分かれると言っても過言ではありません。
カトリック教会では、このときイエス様は、ペテロという人に天国の鍵を授けた、と解釈します。
すなわち、使徒ペテロに天国の扉を開けることのできる権能を授けた、ということです。
この鍵には合鍵もありません。
鍵屋さんを呼んで開けてもらうこともできません。
ペテロが託されたのが唯一の鍵です。
バチカンのサン・ピエトロ寺院の広場には、天国の鍵を持ったペテロの立像が置かれているそうです。
そしてペテロというのは、初代の法王です。
カトリック教会はペテロの後継者が歴代のローマ教皇だと主張します。
ですから、天国の鍵の権能は、ペテロ以来、歴代のローマ教皇に受け継がれていると解釈します。
今日でも、法王が教会に入場してくる時、聖歌隊は「おまえはペテロ、この岩の上にわたしの教会を」と歌うそうです。
それはそれで、権威のある信仰だと思います。
正しいとか、正しくないということを判断することはよくありません。

一方、私たちプロテスタント教会の信仰は次の通りです。
天国の鍵は、16節のペテロの答え、「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉に対して与えられたものであると解釈します。
これは主イエスが救い主=キリストであると言う、信仰告白の言葉です。
その信仰告白に対して、主イエスは天国の鍵を授けた、と理解しています。
ですから、天国の鍵はイエス様を生ける神の子キリストである、と信じ、告白する者に対して与えられる、と信じられているのです。
もちろん目には見えない鍵です。
ギリシャ語ではこの鍵は複数形が用いられています。
信仰告白に対して鍵が与えられる。
ですから、私にも、皆さん一人ひとりに鍵が与えられているのです。

しかし誤解をしないでいただきたいのは、この天国の鍵は、試験をパスした人にしか与えられないということとはちょっと違います。
「あなたは正しく信じている。だからあなたには天国の鍵を授けよう」とか、
「あなたはまだダメだ。鍵は与えられない」というように、ひとりひとりに鍵を授けたり授けなかったりするということではありません。
それは同時に、あなたは幼いから、あなたは行いが悪いから、あなたは人の悪口を行ったから、あなたは罪を犯したから、あなたは子供だから、あなたはもう年をとっているからなどということによって鍵を渡されるかどうか区別されるのではないのです。

かつて神がイスラエルの民をまるごと約束の地へと導かれて行かれました。
主イエスは、教会という新しい神の民を、丸ごと救おうとされているのです。
この時主イエスをキリストと信じ告白した、ペテロにまず教会の代表として、この鍵を託されたのです。

18節に、「教会を建てる」という言葉が出てくるのは、そのためです。
わたしたちが、バラバラに信仰生活を送るのではなく、老人も子供も教会につながって信仰生活をする必要があるのです。
教会とは、キリストの体であると、新約聖書は述べています。
教会と共にキリストは歩まれるからです。

実は「教会」という言葉は福音書には2個所、しかもマタイにしかでてきません。
そのうちの大切な1個所がきょうの所です。
「教会」と翻訳される言葉は、原語のギリシャ語では、「集会」という言葉に、定冠詞「The」がついたものです。
ですから「ザ・集会」というのが教会という言葉です。
聖書が書かれた頃にはまだ今日のような教会は存在しなかったのです。
今までなかったものを表現することは難しいものです。
今までにあった物の名を借りて表現するか、全く新しい言葉を作り出して意味を持たせるかです。
人々は、本当の神の子を知りませんでした。
弟子達もそうでした。
主イエス以前には、主がおっしゃられた「人の子」が神の子を意味することはありませんでした。
また、この「ザ・集会」が教会を意味することもありませんでした。

一人では「集会」になりません。
集会といえば、二人または3人以上の人が集まらなければなりません。
つまり、キリスト信仰というのは、最初から、一人では成り立たないのです。
その「The集会」を神は愛し、そこに天国の鍵を託されたのです。
牧師が鍵を握っているのではありません。
私たち信仰者一人ひとりが構成する教会がその権能を持っているのです。
そしてその教会に連なることが大切なのです。
わたしたちの教会も、「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白し続けるのです。



愛します主よ。
あなたは、教会に天の国への鍵をお渡しくださいました。道であり門である御子を通して私たちが死の領域に飲み込まれることはないということをしましてくださいました。ありがとうございます。
神よ、どうかそのような弱い私たちを、あなたが常に支えてくださるということを思い出させてください。
互いに祈りあい、神の集会をとおして私たちが常にあなたとつながっていることができますように。
あなたが示される道を、御心の通りに歩み、謙虚に、常に主により頼む生涯をあゆんでいくことが出来ますように、助け導いてください。
主の御名によって祈ります。

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