日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 天の国に入るために  マタイ18:1-14 2008/09/21

<<   作成日時 : 2008/09/21 08:09   >>

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誰が一番か、そして自分がどうか、このことは気になります。
あるいは誰が一番のリーダーか、ということは気になるものです。
子供の頃から、誰が一番か、ということに興味を持ち、このことにとらわれてしまうと一生誰が一番か、ということに一生とらわれてしまうのかもしれません。

この箇所に出てくる《誰がいちばん偉いか》という弟子たちの順位争いは、あとあとまで繰り返されます。
極めて率直に泥臭い人間の姿を浮き彫りにしていると言えます。
福音書における弟子たちの姿は、どちらかというと人間らしい、弱い存在として描かれています。
それは、ペンテコステで聖霊を受けてからの言行録での弟子たちの活躍と対比するかのようです。

そして「人よりも高く」という願いは人間の心の一番奥底に根付いていて、決して消えないものだという現実をも思います。
しかも弟子たちは別に売上げを競っていたり、誰かを出し抜いたりしたいのではなく、天国に入るためにそうしているのです。
自分の兄を出し抜いて遺産を自分のものと使用としたヤコブに比べればまだかわいいのかもしれません。
このように他より先んじたいという思いの恐ろしさは、心が純粋であるということ、謙遜であるということ、そういう面にも及ぶ問題なのだと思います。

芥川龍之介の小説「くもの糸」を思い出します。
この小説に出てくるかんだたは、お釈迦様がお慈悲で垂らしてくださった蜘蛛の糸を、自分だけで独占しようとします。
その姿を見てお釈迦様は、かんだたのところで蜘蛛の糸を切ってしまいます。
そして悲しいそうなお顔をなさって、でも何事もなかったようにぶらぶら歩き始めました。
浅ましい、ずうずうしい、関西弁ではあつかましいとでも言いましょうか。
案外、それが正直な人間なのかもしれません。

さて、「天の国に入るために」という説教の題をつけました。
私たちは、天の国に入るために、と聞くと、どんな方法を語ってくれるのだろうか、と思われるかもしれません。
これさえ聞いたら、もう来週から教会に来なくてもいい、と思われるかもしれません。

私たちは誰もが、天の国に入れる優先順位では上位でありたいと思うものです。
天の国に入れるお墨付がほしい、当確がほしいのです。
その確約がほしいために1番になりたいと思うのではないでしょうか。

誰が一番偉いかという弟子たちの興味に対して、主イエスは断固たる口調で語られました。
日本語の聖書には現れていませんが、主はここで「アーメン、アーメン」と繰り返されました。
これはきわめて厳粛な表現です。
お祈りの後に唱える「アーメン」は「その通り」、「同意します」などの意味ですが、このように最初に来るときには、「まことに」「確かに」という意味で訳されます。
日本語には、「はっきり言っておく」「まことにまことにあなたに言います」などと訳されます。
続けて《心を入れ替えて、子供のようにならなければ》と主イエスはおっしゃいます。
これは「謙遜のすすめ」ではありません。
日本人は謙遜を美徳としますから、ついついそのように考えてしまうものです。
しかし、私たちは謙遜であること、いい人間であろうとすること、そういう所ですら私たちは競争をしようとします。
自分を高くしようとする。
しかし、より子供のようであること、そこにおいて再び同じ競争を私たちがしたら、主イエスの真意から離れてしまうのです。

ここで主イエスは「心を入れ替えるように」と明確に語られるのです。
「あなたの生き方を転換せよ」という意味です。
「天国に入るためには、どうすればいいか考えなさい」というのではないです。

《幼子のように》とは子供が自分の無力さを感じ、両親に頼りきるように、私たちもまた神さまに全身を傾けて信頼しなさい、ということです。
実際には頭ではわかっていても、このことを実践することはけっこう難しいものです。
手前味噌になりますが、教会の子供として、香穂の働きは大きいなぁ、と常々思います。
散らかしっぱなしだったり、静まっているときに話しかけたり、いろいろな人にご迷惑をおかけしていることもありますが、
よろこんで奉仕する姿は見習うべきであり、彼女の笑みに励まされるものです。
昨晩も夕食のお祈りのときに、手は額の前で組むように促し、全員がその姿勢になるまでお祈りを始めません。
なかなかお祈りが始まらないので、誰かが目を開けると、ちゃんと目をつぶりなさい、などとお叱りを受けます。

幼子のように、とは謙遜のすすめではなく、主イエスの十字架に頼らなくては生きていけないことを知るべきだとおっしゃるのです。
では、そうできなかったらどうなるのでしょうか。
大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
「大きな石臼」とは、家庭の主婦が用いていたひき臼ではありません。
もっと大きい臼、つまりロバに引かせて回す臼のことです。
家庭用の石臼でさえ、首にかけられたら沈んでしまうでしょう。
ましてや、ロバがぐるぐると回る臼ですから巨大です。
一人で持ち上げることもできない石臼を首にかけるのですから、地上で繋がれただけでも拷問です。

同時に主イエスは、このように人々をつまずかせる「罪」に対して厳しい態度で臨みます。
それにしても、主イエスがこれほどまでに口を極めて警告なさることは珍しいことです。ちょっと恐い感じさえします。
何をそれほどにイエスさまは警告しているかと言えば、それは今申し上げたように、主イエスを信じる「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ということを絶対にしてはならないからです。

片手、片足、片目になっても罪に染まりきるな、と語る主イエスですが、人々に完璧さを求めません。
逆にこの箇所は人々を躓かせる箇所でもあると思います。
単にこの箇所だけを抜き出して読めば、誰もがこの御言葉に従うことに恐れをなしてしまうからです。
誰もがキリストの救いに預かりたいのだけれど、片手、片足、片目を失うのはごめん被りたいと思うからです。


しかし主イエスは私たちがつまずき、罪を犯すことを良くご存じだからです。
道に迷ったり、行き先を間違えたり。旅には失敗は付きものですが、後になれば、懐かしく思い出されるものです。
ある意味、失敗が、その後の感動を大きくします。
困難な旅、困難な人生ほど、感動もたくさん与えられるのです。

あえて大変な困難の中に、自ら飛び込む人がいます。
断崖絶壁を一人でよじ登ったり、広大な雪原を一人で渡ったり、凍傷で手足の指を失ったり、命を落とす人もいます。
登山家、冒険家と呼ばれる人たちなどはそうです。
べつにわざわざそんなことする必要などまったくないのに…。
なぜ、そこまでして、危険な旅に身を投じるのでしょうか。

1924年、登山家ジョージ・マロニーは、エベレストの初登頂に挑戦し、消息を絶ちました。
その75年後の1999年に、標高8,200mで遺体が発見されたそうです。
まるで時間が止まっているかのように。きれいな遺体だったと言います。
証拠となるカメラや日記は見つかりませんでしたので登頂できたかは謎のままです。
マロニーは、ある時「なぜ山に登るのか」と聞かれ、「そこに山があるから」と答えました。
英語でのマロニーの答えは、"Because it is there." 「そこに、それがあるから」というものでした。
「それ」とは何でしょうか。
マロニーは直接そのことについてなんのコメントもしていませんのではっきりしません。でもそれは自分の体や命を失う危険を冒してでも、手に入れる価値のあるものなのでしょう。

私たちにとって、最も大きな感動の出来事。
それは、神を知り、神の存在をその身で感じることではないでしょうか。
マロニーが過酷な登山の末に求めたのも、言葉にできない、神との出会いであったのかもしれません。
困難にあい、つまずくことなくして、神に出会うことはできません。
しかし、失うこと、失敗することの恐れから、自分の身を守ることばかりに捕らわれている人がたくさんいます。
自分がつまずかないために、人をつまずかせ、傷つける人がいます。
両手、両足、両目がそろったまま地獄に投げ込まれる人とはそういう人のことです。

この世にある最大のつまずきは戦争です。
戦争も、失うこと、失敗することの恐れが引き起こすもの。
たとえ人を傷つけ、命を奪ってでも、自分の身を、自分の国を守ろうとする行為です。
理由付けは何でもかまいません。
でっち上げ、難癖をつけた挙句に、戦争をするという目的のために仕掛ける戦争もあります。
信仰者がそのような過ちを犯すことが、世界中でどれだけ多くの日と躓かせてしまうでしょうか。

実は99匹の羊の話をしようと思って、先ほどの賛美を選んだのですが、どうもそこまでいけそうにありません。
99匹の羊の話はみなさんもよくご存知でしょうから、また別の機会に学びたいと思います。
駆け足でポイントに参ります。
私たちはきょうの箇所で、一人の子供、そして子供のように身を低くして主を求めて来られる人を、つまずかせてはいけないということ。
そのことが、そんなにも主の悲しまれることであるということを覚えたいと思います。
逆に言えば、教会に子供を迎え入れること、また教会の門をたたいてくる人を温かく迎え入れるということが、何よりも主に喜ばれることであるということです。
すると同時に教会が天の国のようになっていくのです。

ある教会の役員会で、ある役員が新しく教会に来た人に優しくしましょう、と言ったのだそうです。
すると、別の役員に、それは、私たちがすることですか?と聞き返されたそうです。
みなさんはどう思われるでしょうか。
先日の加藤常明先生の講演の中で、教会員は名札をつけましょう、というお話がありました。
名札なんてつけなくても、私たちの教会には誰も名前を知らない人はいない、誕生日だってなんだって知っている。
と思われるかもしれません。
しかし、教会員が名札をつけるということは、始めてこの教会にきた人に、自分の名前を覚えてもらうためだというのです。
1年間に数人しか新しい人が来ない教会だとしても、その心がけができている教会かどうか、だというのです。
それが大切だ、とおっしゃっていました。
先日の役員会で話をしようと思っていて忘れてしまいました。
今度、検討しましょう。

8節では、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら」と言われています。
人をつまずかせるという話が、いつのまにか「あなたをつまずかせる」ことになっています。
これは考えてみますととてもおもしろいことで、つまり、子供をつまずかせる、道を求めている人をつまずかせるということによって、自分自身がつまずくことになるということです。
教会が自分たちの自慢をして、教会に来た人をつまずかせる。
教会の雰囲気がわるくて、初めて教会に来た人を躓かせる。
教会学校に優しくない。
それはその人をつまずかせたばかりではなく、自分自身もつまずいたことになるということです。
つまずかせた人本人も、実は、天の国につまずいているのです。
したがってこれは私たち自身の問題となります。
私たち自身が天の国の平安、喜びの中に生きるために、私たちもまた身を低くして、主の名によって子供を受け入れ、主を求める人を受け入れなければなりません。
そこに私たち自身が天国の住人になっていくことがあり、私たち自身が次第に喜びに満たされていくことであるのです。

10節の言葉はおもしろい言葉です。
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
幼な子の天使たちが、天でいつも天の父なる神の御顔を仰いでいるというのです。
先に述べた加藤常昭先生は、このところについて、「これは聖書の中の数多い、心に残る言葉のうちでも珠玉のような言葉、最も美しい言葉の一つだ、といつも思っています。」と述べておられます。

この世の中は、幼な子をバカにし、また幼な子のようになって主を求める人を軽蔑するかもしれません。
しかしその一人一人には、天使がついていて、天において父なる神さまの御顔を仰いでいてくれるというのです。
天使がついている子供たち、なんとも心が温かくなる御言葉です。
大人はいろいろな思いがあります。
さまざまなことに配慮して、あの人にも感謝、このことにも感謝、あれが祝されるよう、これが守られるよう祈ります。
そのようなとりなしの祈りも必要です。
しかし、美しい言葉を並べた大人の祈りではなく、幼な子の素直で真摯なストレートな魂の祈りこそ神は聞き入れてくださるでしょう。
では、どうしたら、私たちの祈りが聞き入れられるのでしょうか。

わたしたちもまた「これらの小さな者の一人」になれば、いいのです。
心を低くして、子供を受け入れ、道を求める人を受け入れ、共に歩むのです。
すると私たちにも、一人一人に担当の天使がいて、私たちが神さまのことを向かないような時でも、担当の天使が天の父なる神さまの方を向いて礼拝していてくれる。
私たちはそんなにも、主の配慮の中で導かれているのです。

このことを言い換えれば、「このような罪深い、おごり高ぶりから逃れることのできない私をも神さまは、イエスさまの十字架の愛によって受け入れてくださるのだ」という福音を信じることなのです。
福音が福音として響くためには、どんなにそれが醜く、浅ましいものであっても、自分の本当の姿を神さまの前で知らなくてはならないのです。
そして赦してくださる方にしっかりと向きを変えて生きるのです。
ですから私たちも幼な子が主を求めるように、主なる神にすがるものでありたいと思います。
小さい者として歩み、キリストにより頼み、信仰に生きる者でありたいと思います。


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