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zoom RSS 墓前礼拝 すべてはキリストの愛の内に 2008/10/19 ローマ8:23-39

<<   作成日時 : 2008/10/19 12:59   >>

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『すべてはキリストの愛の内に』

わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」黙示録14:13


映画『おくりびと』というのがはやっているようです。
これは納棺師という、今まであまり知られていなかった職業に焦点を合わせ、その視点から人間模様を描いた作品だそうです。
昨日から成田でも公開となりました。
もう一つ、『イキガミ』という映画も公開されています。
こちらは18歳から24歳までの若者に、役所からあなたは国家のためにあなたは24時間以内に死にます。という「イキガミ」が手渡される物語です。
生命の価値を認識させることにより、社会の生産性を向上させ、犯罪を減らし、出生数を上げるということが目的という設定です。
イキガミが突然届けられた若者は、今までの人生を省み、残された時間をいかに過ごすかを考えるのです。
設定はいささか乱暴ですが、いろいろな意味で、現代を生きる私たちに生きる意味、死ぬ意味をもう思い返す時期なのかもしれません。
死は誰もが必ず通る所です。

今月に入ってからも大物俳優緒形拳さんや峰岸徹さんなどの訃報がニュースをにぎわしていました。
人がなくならない日はありません。
どこかで誰かがその生涯を閉じています。

人が亡くなった時には、一般的に「不幸があって・・・」と言い方をするのが常です。
ところが不思議なことに黙示録14:13には、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」ということばがあります。

聖書を見ると、本来人間は、死なないですむように造られたものでした。
ローマ書5章には
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」とあります。
死は私たち人間の思いと裏腹に、人間の世界に入り込んで来ました。
そういう意味では、死は確かに不幸な出来事といえます。
神が私たちに与えた罰、罪の責任として死、祝福の反対として、呪われるべき死がおかれています。

また、不本意に親しい者との別れを余儀なくさせる点では不幸だと思います。
それに人間が死を恐れるのは、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」(ヘブライ9:27)という聖書の言葉を本能的に知っているように思うのです。

しかし、先ほど読んだ黙示録には、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」とあります。
不幸なはずの死を幸いに変えたものは、イエス・キリスト様の十字架による罪の赦しの完成です。
死は勝利して復活されたという事実があってからのものです。
死は誰もが通るところにもかかわらず、死んだ後その体験をこちらに伝えるものがないために不安になるのです。
しかし、死んでその死が終わりではないということを私たちに知らしめてくださったのが主イエスであり、私たちはそのお方こそ神であると信じるのです。

そして、イエス・キリスト様を信じる「今から後」ということは、ここにいる私たちにもあてはまることです。
また、聖書は神様の愛を先ほど読んだ言葉で表しています。
いかなる物も「だれがキリストの愛から私たちを引き離すことが出来ましょう。」。
たとえ人間が最も恐れている死、不幸があってといわれる死でさえも、
「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」
私たちにとって不幸な死でさえも、神様の愛から引き離す事はできないのです。神様の愛は十字架に表されています。
私たちが持つ罪を赦すために、神様が人となってこの地上に来られました。
そして、私たちの罪の為に、罪のない神の子イエス・キリスト様が身代わりに十字架にかかって死んでくださいました。
私たちが神様から受ける罰を受けて下さったことにより、私たちの持つ全ての罪が赦されました。
イエス・キリスト様がよみがえることにより、たとい私たちのこの肉体は滅びても、復活のいのちが与えられることを聖書は約束してくださいました。
たとえ死ぬことがあっても、神様の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
私たちは生きていても死んでからも、神様の大きな愛の中に置かれていることを聖書は告げています。

この墓地に来て、わたしたちは亡くなった方を思い起こします。
しかし、わたしたちと亡くなった方との関わりは、懐かしさで終るものではありません。
亡くなった方を思い返すのは、わたしたちが亡くなった方と一緒に生きて行くためです。
亡くなった方とわたしたちとの関わりは、今も続いているのではないでしょうか。
「故人の遺志を受け継ぐ」という言葉が示すように、亡くなった方はわたしたちを支えてもくれる存在です。

しかし、イエス・キリストを信じるとは、単に主イエスの遺志を受け継ぐということではありません。
信仰とは、この方によってわたしたちが救われるということです。
神の独り子イエス・キリストは人間の罪を背負って、十字架で死なれました。
そして、三日目に死からよみがえり、天に昇られたのです。
キリスト教の信仰とは、結局、イエス・キリストの復活を信じるということです。
復活を信じることができれば、わたしたちは天国を信じることができます。
最後の審判もイエス・キリストにゆだねることができます。
イエス・キリストの復活はわたしたちに天国への道を開きました。
人間の力では「生きている人と死んだ人が共にいる」あるいは「生きている人にも死んだ人にも同じ世界がある」と信じることは決してできません。

しかし、イエス・キリストはわたしたちと天国をつないでくださいました。
だから、わたしたちは亡くなった方たちと共に、今も、主イエス・キリストの御前にいるのだ、と信じることができるのです。

その神様の愛が、独り子イエス・キリストによって私たちに与えられました。

インマヌエルの神の愛が、私たちとともにいつまでもありますように。
喜びと平安のうちにありますように。

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