日本ナザレン教団 成田キリスト教会

アクセスカウンタ

zoom RSS キリストによる自由 2008/10/26 ヨハネ8:31

<<   作成日時 : 2008/10/26 12:28   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

今日は、マルティン・ルターに始まる宗教改革を覚えるための聖日です。
宗教改革とはローマカトリックからプロテスタントが分かれるきっかけになった出来事です。
記念日というくらいですから、お祝いか、と思われるかもしれませんが、このことによって多くの血が流されたことも事実ですし、キリスト者同士が殺し合い、恨みあったことも事実です。
いまだに何世代にも及ぶ対立がある地域もあります。
これはどちらが正しくて、どちらが正しくないという話ではありません。
神様がいつも自分とともにあって守ってくれている、と信じていながらも、神様の御心から外れてしまえば、いつしか悪に向かってしまうことがあるのです。
人間は時に正しくとも、もともとが罪に属しているものですから、ちょっとしたきっかけで罪を犯してしまうのです。
そのために悔い改めが必要となります。

本日は一流の演奏家を迎えての音楽礼拝となりましたが、このクラシック音楽は教会と王室によって守られ発展してきました。
午後のコンサートで演奏されますが、ヨハンセバスチャンバッハは1685年ドイツ、アイゼナハで生まれ、ルターがかつて説教したことのある聖ゲオルク教会で洗礼を受けました。
そして、 18歳の時から各地の教会のオルガニストとなり、また宮廷音楽家をつとめました。
宗教改革がなければ、当然音楽の創作環境は違っていたでしょうから、バッハによる曲は変わっていたと思われます。
バッハに限らず、宗教改革がなければ今日のクラシック音楽は変わっていたといっても過言ではないかもしれません。

さて、音楽だけでなく、宗教改革は教会に大きな影響を与えました。
青年ルターがエアフルト大学の図書館で聖書を発見したことに端を発します。
その聖書は旧約新約を備えた、聖ヒエロニムスによるラテン語訳ウルガタ聖書だったと思われます。
4世紀に編纂された聖書でしたがそこに今まで自分がその存在すら知らない聖書があることを知ったのです。
教会では読まれない福音書や、手紙、旧約聖書がいくつも聖書に含まれていたのです。
当時、聖書は聖職者しか読むことができませんでした。
ですから、教会で読まれなければ、聖書に載っているかどうかもわからなかったのです。

お寺のお墓に行くと塔婆と呼ばれる板があり、そこにはサンスクリット語が書かれています。
何かありがたいことが書いてあるのかもしれませんが、これは特別な訓練をうけた専門家にしか読めないと思います。
それと同じように、当時の聖書はなかなか手にすることができなかっただけではなく、普段誰も使っていないラテン語でかかれ、教会内の儀式に使われる言葉もラテン語でした。
まさにチンプンカンプンでした。
ルターは、ラテン語であった聖書を、宗教改革の働きのひとつとして自分の母国語であるドイツ語に翻訳したのです。
丁度グーテンベルグの開発した活版印刷と同じ時期でしたので、ドイツ語訳聖書は一気に社会へと広められたのです。

それは、聖書に記されている神の福音の恵みが、人間の業によって得られるかのような誤った考え方を改め、神の恵みを恵みとして受け取ることができるようになるためのものです。
母国語で聖書を読めるということがいかに恵みであるかを覚えます。
この後、社会が一気に近代化して行ったことは言うまでもありません。

さて、本日のみ言葉ですが、しばらくマタイの福音書から学んでまいりましたが、本日はヨハネ8章です。
8章31節からこの章の終わりまでは、ひとつのまとまりをなしています。
ここで「ユダヤ人」と主イエスとの対決の正念場とも言える箇所で、ヨハネ福音書全体でも大事な部分です。
福音書を書いたヨハネは、この当時の「ユダヤ人」とイエスとの対立を前提として書いています。

イエス様は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
と語られました。
この御言葉は、一見したところ、矛盾するような気がします。
というのも、イエス様の御言葉に留まるということは、主イエスが語る教えや戒めを守る義務があり、拘束されてしまうような印象を受けるからです。
しかし、ここで主イエスが仰せられた「留まる」という言葉は、どこかに「滞在する」といった意味を持つ言葉です
誰かのそばに一緒にいたり、あるところに安心して住み続けたりする場合に用いられる言葉です。
つまり、そのような「滞在する」とか「住む」といった意味を持つ言葉をもって、主イエスの御言葉に「留まる」ということは、イエス様の御言葉に信頼を寄せ、安心してそこに暮らすということです。
そうするならば、真理はあなたがたを自由にするとおっしゃったのです。
さて、この「自由」とは何でしょうか。
「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」とあります。
ずいぶんとあっさり訳されていますが、もう少し詳しく読まなくてはなりません。
つまり「ご自分を信じたユダヤ人」とは、主イエスこそが神のひとり子であり、主イエスこそ救い主であると信じた人のことです。
つまり、主イエスがおっしゃる言葉を神の言葉として受け入れた人だと言えます。
ヨハネの福音書は、その冒頭で、「初めに言葉があった」と主イエスが言葉としてこの世に来られたと宣言しています。
このように読めば、なんとなくわかってきます。
しかし、この当時、それは私たちが今思うほどたやすい事ではありませんでした。
主イエスが救い主だと言い表すだけで、同じユダヤ人から村八分にされ、口を利いてもらえなくなりました。
口を利いてもらえないということは、ユダヤ人用に清められた食物を得ることができないということです。
すると、ユダヤの掟に逆らって、異邦人から食物を買わなくてはなりません。
外側も内側もユダヤ人でなくなってくる。
徐々にユダヤ人としてのアイデンティティがなくなってしまう。
ユダヤの民は、自分がユダヤ人であるということにほこりを持っていました。
ですから、どんなに苦しめられても自分たちのユダヤ民族を守ることができたのです。

主イエスは仮庵祭でにぎわうエルサレムに上って、そこに集まる人々に語りました。
仮庵祭はユダヤでは民族を上げての大きなお祭りでした。
そのときにはエルサレムの神殿に上って礼拝することになっています。
それはユダヤ民族のアイデンティティが一番高揚しているときです。
そんなユダヤ全土から集う民衆に向かって、主は今日の話を始めたのです。

それは主イエスが旧約聖書によって預言され書き記されたメシアか、それとも、神の名をかたる詐欺師か、という対立でした。
さらには、当時のユダヤ社会を支配していた、祭司であり律法学者であり、つまりは支配者層を支持するか、それとも、この世の力をいっさい持たない主イエスをただ信じるが故に支持するかという対立でもあったのです。

たとえば、今の私たちの社会に在って、どの政党を支持するか、という選択は、個人の自由に任されています。
自民党を選ぼうが民主党を選ぼうが、あるいはどこか別の政党を選んでも町から追放されたりすることもありません。
生活を脅かされる事は基本的にありません。
どのような教育を受けようが、街頭でどんな演説をしようが、人に迷惑をかけたり、道交法に違反したりしない限り、自由であります。
しかし、この当時は違いました。
ユダヤ教の律法に従い、神殿に従い、祭司に従い、さらにはローマ社会に従うこと。
それが生き方であり、それがユダヤの民としての掟でした。
そこには自分の考えを主張することはもちろん、おおよそ自由などというものは、与えられてはいませんでした。
しかし、彼らは敢えて主イエスに従ったのです。
それは自分たちがこの世の網の中に囚われ、藻掻きながら生きなければならない存在であるけれど、しかし、自分たちの魂は自由であるということを、知っている人たちであったからです。
つまり「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことは ありません。」という彼らの言葉の中に、彼らの生半可ではない主イエスに向かおうとする意志を読み取ることができるのです。

たしかに彼らは遡ればアブラハムの末裔ということになります。
そしてユダヤ人の歴史を思い出してみると、本当は彼らが誰の奴隷にもなったことがない、などというのはあきらかに誤りです。
旧約聖書に書かれた彼らの歴史を見るならば、それは、まさに奴隷として他国民の社会秩序に翻弄された歴史だと言えます。
彼らは確かにほとんどの場面で、経済的、政治的、或いは諸処の事情によって奴隷状態にありました。
国を奪い取られても、奴隷として差別され、不利益を受けても、彼らは自分たちの事を奴隷だとは理解しなかったというのです。
礼拝によって、聖書によって、律法によって神を覚え続けるならば、どんな状態に追い込まれても、彼らは自由であり、奴隷ではない。
それが彼らの誇りなのであります。
ですから、そんな彼らに対して、主イエスが、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と話したとき、彼らはその言葉を受け入れる事ができなかったのです。
彼らは魂の自由を知り、この世の支配に目を奪われることがありませんでした。
いわば筋金入りの信仰者でした。
でも、だからこそ逆に主イエスの言葉を受け入れることができなかったのです。それは皮肉な事だと思います。

なぜ主イエスは彼らを自由ではないとおっしゃるのでしょうか。
なぜ自分に従い、真理を得るなら自由になる、と話すのでしょうか。
彼らは確かに、国家であるとか経済であるとか、武力であるとか、この世の支配からは自由なのであります。
しかし、自分自身の罪からは自由になってはいないのです。
主イエスは「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と彼らに話されます。
私たちは自由であります、国家や特定の思想に支配されるということもない、経済的に侵されることもないのです。
でも本当にそれが自由ということではありません。
たとえば、私たちが頑張ろうとする、つまり奮起する原動力はどこにあるのでしょうか。
たとえば経済的に貧しい人が、その辛さをバネに、いつかは豊かな生活ができるようにと頑張って仕事をする。
ホームレス中学生という映画が公開されたそうですが、貧しい人がそれをバネに地位を得る。
私たちにとって、恨みや憎しみ、もしくは劣等感ほど、奮起する強い力を与えてくれるものはないように思います。
私たちは、その屈辱を晴らすために努力し、この世の富や地位を得ようとするのです。
そして、この世で勝利を収めることも目指すのです。
自分の力で、努力で勝利を勝ち取る。
満足を手にしようとする。
それが競争社会という生き方であり、私たちは どっぷりとこの考え方に浸っているように思います。
同時に、私たちは、恨みや憎しみ、もしくは劣等感という、自らの悪意の奴隷となっているのです。

では私たちが、本当の自由を得るためにはどうすれば良いのか。
主イエスはこのように話します。
「:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」
主イエスは「神は愛である」と話されました。
そして主イエスは彼の十字架と復活までの道のりを通してそのことを私たちに伝えるのです。
つまり、恨みや憎しみのようなこの世の力、つまり闇に心を支配されるのではなく、主イエスの示した愛という光で、その闇を打ち破ること。
自分の努力によってこの世の勝利 を勝ち取るのではなく、主イエスに従って、天国の勝利を勝ち取るとき、私たちは、本当の自由を得ることができるのです。


聖書には、私たちは人間が行う業によって救われるのではなく、主なる神の御子イエス・キリストご自身の尊い十字架の救いの御業により救われるということが語られています。
このイエス・キリストの救いの御業に信頼し、文字通り、その約束に「留まる」時、私たちは確かに救われるのです。
永遠の命へと導いて頂けるのです。
神様が約束されたわれわれの行く先は、永遠の命です。
それは、罪と死の奴隷からの解放を約束するものです。
だからこそ、イエス様のお語りになられた教えや戒めは重荷とはならず、むしろ、本当の自由へと私たちを招き入れて下さるのです。

クリスチャンになると、毎週日曜日に教会に行かなくてはならないから、という話を聞きます。
疲れているのだから日曜日くらいゆっくり朝寝坊したい。
私もかつて社会人をしていたころはそんな気持ちになることもありました。
たしかに、教会では毎週礼拝がささげられています。
何をしているのかわからない、自分と距離があるところでの礼拝であればそうだったかもしれません。
よくわからない神様がはたらいているのであれば、余計にそう思うのかもしれません。
しかし、そこで真理の自由が語られ、そのことによって永遠の命が約束されているとしたらどうでしょう。

まもなく訪れるクリスマスの光とは、この光のことであります。
罪というこの世の闇に支配されるのではなく、愛という光によって立ち向かう。この世の勝利を喜ぶのではなく、この闇に勝つ勝利を喜ぶ。
そのとき、私たちは本当の自由を手に入れるのです。
光が与えられている、この世を支配している闇は打ち破られる、これが真理なのです。
神の祝福と真理のうちを歩みましょう。




月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
キリストによる自由 2008/10/26 ヨハネ8:31 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる