日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 祈りは教会を築く マタイ18:15-20  2008/09/28

<<   作成日時 : 2008/09/28 13:51   >>

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祈りは教会を築く

私の父は信仰を持っておりませんでしたが60歳で亡くなりました。
生前は自動車販売会社に勤めておりましたので、車の運転が好きで、上手で慎重でした。
免許をとってから35年目に警察から無事故無違反35年の表彰をもらいました。
自分が免許を取って運転するようになると、それがいかにすごいことであるのかを思い知りました。
父は無事故・無違反だと自覚していました。
警察に行ったら「うまくやったな、あくまでも無摘発なのであって、今後も違反をしないように」と言われたそうです。
表彰状には「無事故・無違反」と書かれていますが、「無摘発」だというのです。
もちろん表彰がほしくてそのようにしていたのではないでしょうが、警察の上から目線に腹を立てたようです。
確かに35年も車線変更違反や速度超過などを全くしない人はいないでしょう。
車線変更違反、駐停車禁止、知らない土地での進入禁止など、誰でも犯してしまう軽微な違反は、警察も注意するだけで摘発しない場合もあるでしょう。

私たちは生まれながらに罪を犯しています。
自分でもはっきりわかる罪。
刑法によって定められた罪。
人に対する罪、神に対する罪。
良いのか悪いのかわからないままに犯してしまった罪。
しかしそれが悪いことであるということが、はっきりと分かる時があります。
それがわたしたちの神を信じたときです。
聖めを強調する教派は、これらの罪に気付くことを聖めと呼び、
いつその体験をし、神に立ち返ったのか、そのことに重きを置きます。
聖めの体験とは他には変えがたい貴重な体験だからです。

しかし、そのことばかりに固執してしまうと、神の哀れみによって私たちが救いに数えられていることを見失ってしまうことがあります。
そして、自分が自分自身の罪を見出し悔い改めたことばかりに目を向けてしまいがちになります。
自分たちがあの時悔い改めた、だからもう大丈夫。
そう思い始めると、まただんだん罪に染まってしまいます。
神さまは私たちの犯した罪をすべてご存じであります。
神様はご存じでありながら、私たちが主イエスを信じて悔い改めたときに、主イエスはすべての罪をゆるしてくださるのです。
主イエスは私たちが主に向かって罪を告白するならば、その十字架の贖いのゆえにすべてゆるしてくださったのです。
それはどんなに大きな罪であっても、主の前に悔い改めるのであればゆるしてくださる。
それはたとえば使徒パウロが自分のことを指して「罪人のかしら」と言っていることからも明らかです。
パウロはかつてキリストの教会を激しく迫害しました。
多くのキリストにある信仰者たちを死に追いやりました。
それは本来ならば赦されることのないほどの罪であります。
私たちの信仰の先輩を迫害し、殺したのですから、恨みと憎しみの対象となってしかりの人物であります。
しかし、ご存じのように主イエスは彼をあわれみました。
パウロをとらえ、その罪をゆるし、反対にキリストの伝道者としてお立てになったのです。
ですから、私たちは、このサウロの回心の箇所を好んで読みます。
また、主イエスの十字架のとなりで同じようにはりつけにされていた強盗は、その人生の最後の最後にキリストにあわれみを乞い、罪の赦しを受けました。
この話も好みます。
神は、私たちが悔い改めたとき、神がいかなる罪でもゆるしてくださるのです。
そうして私たちは神の国に迎え入れられるのです。

そのことはこの地上において具体的に言えば、教会に加えられるということです。
わたしたちは何の功績もなく、神の国に入れていただくことができるのです。
何の値打ちもない者であるのに、ただキリストの十字架の贖いのゆえに神の国に入れられ、教会に加えられるのです。
しかし、「ではそのままでよいか」と言えば、そうではないでしょう。
罪人のまま、ありのままの私たちが神の国に迎え入れられますが、しかしそれはそのままでよいということではありません。
私たちが罪を犯さないようになることが主の御心です。

ヨハネ福音書8章で、姦淫の現場で捕らえられた女性に向けられた言葉で知ることができます。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
主イエスの御心は、私たちが罪を犯さなくなることを願っておられるということが分かります。
それでもなお、私たちは罪を犯してしまうのです。
さらに主はそんなことも十分ご存知でありながら私たちが罪を犯さないようにと望んでおられます。
主が望んでおられるのだから、私たちはそれに従って行きたいと思います。

時として教会の中でも「罪を犯す」ということが起きてしまうこともあります。
なぜならば、教会は主イエスによって罪赦されたものの集まりであって、言い換えれば「ゆるされた罪人」の集まりだからです。
罪を犯さなくなった人の集まりではありません。
完全無欠な人の集まりではない。
「ゆるされた罪人」の集まりです。
確かに悔い改めの瞬間は大切です。
しかし、一度は悔い改め、他人の前で信仰告白をして洗礼を受けても、教会から離れてしまう人たちがいます。
ある調査では、洗礼を受けたクリスチャンの平均信仰期間は3年未満だということです。
ここにおられる方々は、その平均をはるかに超えておられる方々ばかりですからそのような実感がないかもしれません。
どのような調査と計算をしたのかはわかりませんが、洗礼を受けた直後教会を離れる人がいかに多いかを示していると思います。
しかし、悔い改め、希望を胸に信仰生活に入っていくはずの人たちが、教会からはなれてしまうということが起きているようです。

時として教会の中でも愛のない行為が行われることがあります。
当事者達も、それが「愛のない行動」であるという認識もなく善意のうちに犯してしまう罪もあります。
新約聖書では、「愛のないこと」を「罪」と言います。
口語訳聖書では書かれていなかったのですが、新しい写本に合わせて15節に《あなたに対して》罪を云々という言葉が加えられています。
兄弟があなたに対して、となったことで、とても問題が具体的になりました。
先週、小さきものを躓かせる者、という話をしましたが、自分自身が傷つけられるということに私たちはとても敏感です。
人間にはプライドというのがあるからです。

漠然とした罪ではなく「私が傷つけられた」としたら放っては置けないからです。
私の心には怒りが燃え上がり、憎しみがわいて来ます。
時として教会の中でそういう経験をします。
主イエスの時代の弟子たちの教会にそういう問題があったのです。

ここでイエスさまは傷つけた人の所にいって忠告しなさいと言われています。
これは怒りに任せて自分を主張しなさいということではありません。
「てめぇ、よくも俺を侮辱したな。」
と痛みをぶつけるということではありません。
なぜなら、そうすることで《兄弟を得ることになる》と書かれているからです。
兄弟をやっつけるためではなく「その兄弟が滅びないため」です。
だからこそ忠告するのです。これは憎しみがあってはできないことでしょう。
愛に基づかない限り不可能です。

教会では、まさに罪を犯した当の本人であるその人の所に行って、それが神さまに対する罪であることを忠告しなさいというのです。
兄弟を得るためであるというのです。
切り捨てるのではなく、教会の枝として主イエスのもとにつなぎとめるためであるということです。

まず2人きりで話し合いなさい。と主はおっしゃいました。
人は他人の前で批難されることを嫌います。
他の人の前でいきなり罪を指摘されたら、誰でも意固地になるものです。
みんなの前で恥をかかせなくてもいいでしょう!と思ってしまいます。
そうすると、どんなに自分が間違っていると思っても、そういう見栄や体裁のために謝らない。
謝れないという自体がおこってきます。
主イエスはそういうことをご存じで、「行って二人だけの所で忠告しなさい」と教えられるのです。
相手を切り捨てるのではなく得るためであります。
相手の心を開き、何とかして過ちに気がつくようにさせるためです。

しかしながら、それでも相手は過ちを認めないかもしれない。
自分が正しいと主張するかもしれない。
そうしたら今度は、他に1人か二人連れて行って、客観的に判断してもらいなさいということです。
他の人が見てもそれが罪であるということを相手に知ってもらうのです。
それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさいと。
始めて教会で会議にかけることになります。
まさにそれが罪であるということを、教会全体が判断することになります。
そういう順序を踏みなさい、とイエスさまは教えておられます。
何とかしてその人が自分の過ちに気がつき、悔い改めて、主のもとに立ち返るように手伝うという姿勢です。その精神が貫かれているのです。

しかしそれでも悔い改めない場合はどうするのか。
主イエスがおっしゃるのは、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」というのです。
これをどう解釈するかは難しいところです。
当時のユダヤの世間の人は、異邦人や徴税人を軽蔑し、見捨てていました。
そうすると、もう見捨てなさい、という意味になります。
異邦人と同様にする。ということは、市場で物が買えません。
つまり聖別された食物が手に入らないということです。
生きるためには汚れた食物を食べなくてはなりません。
しかも、ユダヤ人は口を利いてくれませんから、自分もかつて忌み嫌っていた異邦人と接触をして手に入れなければなりません。
するとますます、律法的に汚れた存在となっていきます。
ユダヤ人共同体からはずされた存在。
村八分以上に差別されてしまいます。
ある学者は、こんな厳しい言葉を主がおっしゃるはずがないから、マタイが書き加えたのだ。と主張しました。真意の程はわかりません。

しかし同時に、私たちは主が異邦人や徴税人に対してどのようになさったのかを知っています。
異邦人や徴税人と言葉を交わし、直接福音を語られました。
このように差別された人のためにも十字架につけられたのです。
その意味にとれば、ここは、まだ救われていない人と同様に見なしなさい、ということなのかもしれません。

これは、聖めの信仰の立場に立つならば、こうなります。
いついつ聖められた、と言って信仰告白しても、罪を犯してしまったのならばまだ聖められていない人と同じように接しなさい、ということかもしれません。


そこには、あくまでも切り捨てるのではなく、主の道に戻す、立ち返るようにするという主の愛が現れているのです。
どうしてそこまでするの、と思いたくなりますが、それはまさに私たち自身が、主によってそのように取り扱われているからです。
私たちが罪人であった時、主はあわれんで、見捨てずに近づいてくださいました。そして主と二人きりのところで導いてくださった。
そのことを思い起こし感謝しつつ、兄弟姉妹に接するのです。
自分から悔い改めようと思った、などと傲慢さを持ってはならないのです。
神に導かれ、友に助けられて信仰を保つことができるのです。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と主イエスはおっしゃるのです。
「あなたがた」とはだれのことでしょうか。もちろんここではイエスさまの弟子たちに対して言われたのであります。
18章は特にイエスさまが天に帰られたあと、ペンテコステの聖霊降臨によってこの地上に誕生する「教会」に対して主イエスが教えておられるところだとすでに申し上げました。
ですからこれは教会に対して主がおっしゃっておられるということになります。
わたしたちに対する約束です。
という言葉が大切なのではないか、と思います。
わたしたちは「神さまは本当にどんなことでも聞いてくださるのだろうか」とそちらのほうばかり疑問に思ってしまいます。
わたしたちは自分の関心のある言葉ばかりにどうしても目が行きがちです。
しかしこの文章には前提があります。
聖書には珍しく条件がつけられています。
それが「地上で心を一つにして求めるなら」ということです。

私たちは、「信仰というものは個人個人の心の中の問題だ」と考えやすいのです。
神さまと1対1の関係のものだ、と思いやすいのです。
もし信仰というものがそれだけのものであるならば、何も「教会」が存在する必要はありません。
私たちは一人では寂しいから便宜的に集まっているのではありません。
一人で聖書を読んでいてもつまらないし、よく分からないから、教会へ行って教えてもらう、という、いわば習い事やサークルでもありません。
その場合も、信仰にとって教会が必ず必要であるというのではなくなります。
教会が「あったほうがよい」程度のものに過ぎなくなってしまいます。
しかし今日の御言葉で主イエスが「あなたがたのうち二人が」とか、「二人または三人が」とおっしゃるとき、少なくとも一人ではないということです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところにはわたしもその中にいる」とおっしゃるとき、それは少なくとも二人または三人以上が主イエスの名によって集まる、ということが大切なこととされていることが分かります。
それが不可欠なこととして語られているのです。
もちろん、体が弱くて教会に出席したいのだができないという人もいる。
しかしそれは少なくとも心では教会とつながっているのです。
そういう中でわたしは、全能の神さまに向かって祈る、ということに目が開かれていくのです。
主イエスは、「二人または三人が」とおっしゃった。
「100人が」とおっしゃったのでもなく、「10人が」とおっしゃったのでもない。しかし主は「二人または三人が」とおっしゃったのです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。
ですから、教会の礼拝、お祈りの会が大切なのです。
わたしはどれほどこの主イエスの言葉に励まされたことでしょうか。

礼拝の中では「主の祈り」と「使徒信条」という成文祈祷があります。
そんなに気にしないことが多いのですが、
信仰告白である使徒信条の主語は「我」つまり私個人であり、主の祈りは「私たち」です。
神様への信仰を告白すると同時に、私たちは常に「ともに祈る」ことが重要であり、誰かのためにとりなすことが必要なのです。

では、ともに祈る、またはとりなしの祈りをするということは、どういうことでしょうか。
心を一つにして祈るときに、まず必要なのは、愛と憐れみと赦しです。
愛をもって誰かとともに祈る、ということ誰かのために祈ってあげるということばかりではありません。祈ってもらうこともまた愛です。
祈ってもらっては申し訳ない、祈ってもらうには及びない、という考え方は間違いです。
なぜなら、信頼しているから共に祈ってほしいと願うわけです。
つまり愛と信頼を相手に表明していることになります。
愛をもって人のために祈る、愛をもって自分のために祈ってもらう、それが共に祈ることです。

また憐れみがなければ共に心を合わせて祈ることはできません。
傲慢と不信感のあるところで、どうして同じ思いを持って心合わせて祈ることができましょうか。
そして赦しなしには心を合わせることはできません。
その赦しがとても難しいことはイエス様もご存知でした。
イエス様が教えてくださった「主の祈り」は、神様への賛美とわたしたちの願いの続く中で、ただ一つ私たちがするべきことが含まれています。
それは「私たちに罪を犯す者を赦します」ということです。
祈りに赦しは不可欠なのです。

今、この時も天の御使いたちも加わって礼拝がなされていることが実感できますでしょうか。
そして主はその教会を祝福してくださっているのです。
神に喜ばれる信仰生活を歩んでまいりたいと願います。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」 めぐみ深い主よ
御言葉を感謝いたします。イエス様がはっきりいる場である教会の責任が、とてつもなく大きいことを学びました。信仰者を悔い改めへといざない、自分自身もつねにキリストに立ち返ることができますように。教会は正しく人を救っているか、愛しているか、尊重しているか。その人の隠れたすべての面を見た上で、適切に判断しているか。安易に上っ面だけで裁くだけの教会になってしまわないように導いてください。あなたの愛に生きる教会であり、教会に連なる信仰者のしての歩みを今週も得させてください。

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