日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 世の条理と神の条理 マタイ20:1-16 2008/10/12

<<   作成日時 : 2008/10/12 20:53   >>

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マタイ20:1-16

本日は、ナザレン日です。
毎年10月の第2日曜日のことをわたしたちは「ナザレン日」と呼んでいます。
1895年、ブリジーという監督のもと、135人の教会員が集まって、最初の教会が創立しました。
1908年以降ナザレンという名前で呼ばれるようになったため今年が丁度100年目になります。
現在ナザレン教団は世界150カ国以上に宣教をしているのだそうです。
国連に加盟している国家の数が192ヶ国だそうですので、私たちのナザレンの群れは世界に広がりを持った世界教団であることがわかります。
日本では牧師が不在のところ、常駐していないところ、集うべき会堂を持たないところもありますが中堅どころの教派だといえると思います。

さて、このブリジー監督の有名な言葉が、「暁に太陽は沈まない」という言葉です。
この賛美を、説教の後、共に賛美したいと思っております。
この歌を作詞作曲したリネラス・ハルドラーとはいったいどんな人だろうと調べてみました。
HALDORがこの曲を作ったのは72才の時だそうです。
72才にして、「宣べ伝えよや 全き福音 闇を破る日のごと」と力強い曲を書いたのです。
また、この作者は33才の時に「ああ、驚くべきイエスの愛」を作詞作曲しているのを知ってさらに驚きました。
この曲は来週賛美したいと思います。
この人は、33才でイエスの驚くべき愛を讃え歌い、それから40年を経て、72才になってなお、その喜びを、いまだ見ぬ地に宣べ伝えようとしていたのです。

真暗な夜にも、やがて必ず夜明けが来ます。
今どんなに暗く、希望が無く、もはや何もかもが取り返しのつかない絶望の縁に追いやられているような状況だったとしても、イエス・キリストの福音の力は、闇を打ち破る暁の光です。
真暗だった空の彼方から太陽が上り始めたら、それは決して止めることができません。
私達の状況がどんなに暗かろうと、明るい光がさしこみ、新しい力に満たされ、きっと、喜びがあふれるようになります。
そのようなブリジー監督の情熱に満たされた信仰、これがナザレンの魂です。
ナザレンとは「ナザレ人」という意味で、イエス様が「ナザレ人イエス」と呼ばれたことにちなむものです。
ブリジー監督は、イギリスの教会の偉大な伝道者ジョン・ウェスレーという人をたいへん尊敬していました。
ジョン・ウェスレーはブリジー監督より更に200年近くも昔の人です。
ナザレン教団はプロテスタント教会の中でも、特にこのジョン・ウェスレーの強調した聖めの教えを重要視する教団です。
同じ聖めを強調した教派には、メソジスト、ホーリネス、イムマヌエルや救世軍などが挙げられます。
淀橋教会で持たれるウェスレーに学ぶ会に来ておられる教会の方々を思い浮かべていただけるとわかりやすいと思います。
このウェスレーはイギリス国教会つまり聖公会の司祭です。
聖公会は司祭が結婚して家族を持ちますが、新教の中ではカトリックに近い今日はです。
彼はハイチャーチと呼ばれるカリカリのカトリックっぽい礼拝を重んじる環境で育ちました。
時に産業革命の時代、地方からの労働者に向かって、野外で大衆を相手に礼拝を行ないました。
それまでは教会は上流社会の人しか行けませんでした。
ところが、ウェスレーは地方出身で学のない、労働者階級に向けて宣教し、回心へと導いたのです。
実を申しますと、私はウェスレーについては、神学校に入るまで全く知りませんでした。
ナザレン教団というのが聖め派に属していることすらよくわかりませんでした。
目黒教会の入り口に「暁に太陽」とこの言葉が書かれていても何のことかもわからなかったくらいです。

さて、本日の御言葉はイエスさまのたとえ話です。
わたしは、このたとえ話には特に思い入れがあります。
私はご存知のとおり「仕事」に関する仕事をしてきました。
賃金がどうだとか、労働条件がどうだとか、そのようなことを生業としておりましたから、特にこの譬えの不条理さを感じていました。
みなさんはこのたとえ話に接してどう思われるでしょうか。

神様の物差しと、わたしたちの物差しとはかなり違っています。
たまに、このように神様の考え方とわたしたち人間の考え方が違っている点が、たとえ話の中にあらわれてくることがあります。
主イエスのたとえ話を聞いていて、わたしたちが「おや? おかしいぞ?」と感じる時です。
しかし、そのような時こそ神様の恵みが現れているということを覚えておいてください。

「天の国は次のようにたとえられる」と主イエスはたとえ話をなさいました。
ある家の主人が、自分のブドウ園で働く労働者を雇うために町の広場に出かけていくというところから始まります。
農業にとって、収穫の時期というのはとても大切な時期であることは言うまでもありません。
特にブドウなどの果物の収穫というのは、その収穫するタイミングが重要です。
1日遅くても早くても上質のものが取れないというほどのものだそうです。
ですからたいへん忙しい時で、人手がいる時です。
ブドウ園の主人は、「夜明けに」町の広場へ出かけていきました。
そこには、市場が開かれたり、きょうのたとえ話のように、その日の仕事を求めている人がいたりしました。
そしてこの主人は、1日につき1デナリオンの賃金を払う約束で、労働者を雇い、自分の農場へ送りました。
ちなみにこのデナリオンというお金の単位は、イラク等の国で今も使われている「ディナール」と同じだといわれています。
1デナリオンというと、当時の庶民がなんとか1日暮らしていけるだけのお金の値打ちであったと言われています。
今で申し上げますと、いくらくらいでしょうか。
千葉県の最低賃金は706円で、8時間労働だとすると、5648円です。
今の感覚でこの額面を捉えると残業手当もつけて8千円弱だったと想像してください。

朝早く広場に出かけていった主人は、そこで日雇いの労働者と1デナリオンの約束で雇いました。
この主人は、その後何度も町の広場に行って、ぶどう園で働く労働者を雇い続けるのです。
朝の9時にも行って労働者を雇い、ぶどう園に送りました。
さらにこの主人は、昼の12時にも、驚いたことに午後3時にも広場に出かけていって、労働者を雇いました。
日没が午後6時だとすると、当時の労働者は午後6時まで働いたと思われます。昼の12時に雇った労働者は夕方6時まで6時間、そして午後3時に雇った労働者は、3時間しか働く時間がありません。
しかしこの主人は、そのように何度も広場へ足を運んで、人を雇いました。
全く驚いたことに、この主人は、なんともう夕方になってしまった午後5時にも、広場へ出かけていって、労働者を雇いました。
午後5時に雇ったとすると、日没まで1時間しかありません。
これは、いくらぶどう園が忙しいと言っても、全く割に合わないことではないでしょうか。
まず、第一のおかしなポイントです。

もちろん、ここで主人にたとえられているのは、わたしたちの神様です。
神様はそういう方であると。
5時に雇われた人は、主人から「なぜ何もしないで一日中ここに立っていたのか?」と聞かれます。
立っていた人たちは、「だれも雇ってくれないのです」と答えました。
だれも雇ってくれない。‥‥それはたいへんつらいことに違いありません。
多くの庶民がその日暮らしのようなことをしていた時代です。
その日働くことができず、何も賃金がもらえないとしたら、その日食べるものも買えないかもしれません。
家ではおなかをすかせた家族が待っているかもしれません。
そうすると、こんな夕方まで広場で雇ってくれる人を待っていても、ムダだと分かっていても、家に帰るわけにも行かない。
おそらく途方に暮れた思いで、広場に立ちつくしていたのではないでしょうか。どうせムダであると途方に暮れていた、ところが、この風変わりなぶどう園の主人に出会ったのです。
そして日没まであと1時間しかないというのに、雇ってくれたのです。

さて、そして日没となり、1日の仕事が終わり、労働者たちへの1日の賃金の支払いの時間となりました。
ここでまたおかしなことが起きたのです。
このぶどう園の主人は、賃金の支払いを、最後に雇った者、つまり午後5時に雇われて1時間しか働かなかった者から始めたのです。
そしてその者に1デナリオンを支払った。
1デナリオンと言えば、朝早く雇われて、一日中働いた者に最初に約束した賃金の額です。
その額を最後に1時間しか働かなかった人に支払った。
全く予想外のことです。
おかしな第二ポイントです。

それを見ていた、早くから働いていた人たちは、「自分はもっと多くもらえる」と思いました。
そう考えるのは当然に思えます。
ところが早くから働いた人も、一日中働いた人も、みな等しく「1デナリオン」でした。
ここで、多く働いた人々から、この主人に対する不満が爆発します。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』と、主人に不平を言います。
そりゃそうだと、わたしたちは思うでしょう。
1日中、おそらく12時間ほども働いた人、しかも本人たちが言っているように、暑い中を、汗水流していっしょうけんめい働いた人と、夕方になってからたった1時間しか働かなかった人と、同じ1デナリオンの賃金というのは、あまりにもひどいではないですか。
そんな理屈はこの世では通りません。
この世では、12時間働いた者は、1時間働いた者の12倍以上はもらわなくては割に合わないからです。
ですから、長い時間働いた者が、主人に文句を言ったのも当然と言えばあまりにも当然なことです。
ところがこの主人は反論するのです。
『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』‥‥これはもうむちゃくちゃな反論にしか聞こえません。
何かわたしたちを説得させるような正当な理由があるわけではない。
ただただ一方的に「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と、おっしゃるのです。
「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」とおっしゃるのです。つまりは、この主人は、「わたしがそうしたいからするのだ」と、もうこれはわがままとしか言いようがありません。
ところがイエスさまによれば、このおかしな主人が父なる神さまだ、これが神の国の論理だとおっしゃるのです。

みなさんは、このたとえ話を読んで、どのように思われましたか。
朝から働いた者と一緒になって、口をとがらせて、この主人を非難しますか?
毎回申し上げますが、たとえ話を読む時に、大切なことは、「ではわたしはこの物語の中で、誰の立場で読むのかというのは大変重要です。
朝一番に雇われた人ですか? 午前9時に雇われた人ですか?
あるいはせめて昼の12時に雇われた人ですか?
それとも、夕方5時になって雇われて、1時間しか働かなかった者ですか?
あなたは自分が、このうちのどの人にあたると思いますでしょうか?

みなさんが「わたしは朝一番から働いた者だ」と思うならば、やはりこのたとえ話は、変な話であり、この主人はおかしな主人にしか思えないでしょう。
主人を、神様を非難したい思いになるでしょう。

或いは、少しだけ謙遜になって、9時や12時に雇われた者だと思うのでしょうか?
そうだとしても、やはり夕方5時になって雇われて1時間しか働かなかった者が、自分と同じ賃金をもらったということについて不満を持つでしょう。
しかし、もし自分が、だれも雇ってくれる人がおらず夕方5時になってしまっていたら。
やっとこの風変わりな主人に雇われて、1時間しか働かなかった者だとしたらどうでしょうか?
だれも雇ってくれる者がおらず、夕方まで広場に立ち続けた。
こんな時間まで待ってもむだだと思いながら、さりとて手ぶらで家に帰ることもできない。
途方に暮れて立ち続けていた、この最後の者だとしたら。
1時間しか働かなかったのだから、当然1デナリオンもらう資格がない者です。
哀れに思った主人が、1日中立ち続け、待ちぼうけた私を1時間だけ働かせてくれただけ。
賃金は1デナリオンの1/16の1アサリオンくらいかもしれない。
あるいは、パンひとかけらか小麦1掴みかもしれない。
それにもかかわらず、主人が同じ1デナリオンをくださった。
これはもうありえない話です。

そして実は、わたしたちは、本当は、みんな、この最後に雇われた者なのです。
「ご主人様、こんなやつに1デナリオンも払うことなどありませんよ」と言われるべき者でした。
そのまま仕事もなく、食べることもできず、死の闇の底に落ちていって当たり前の者でした。
ただ、主の導きでした。
すなわち主イエスは、救われるべき何の資格もないわたしに、他の人と同じ1デナリオンを支払ってくだったのです。
「何でそんなやつを救うのですか?」と非難する者に向かって、弁護しておっしゃってくださいます。
「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ!」と。

あぁ、私たちは、この夕方5時に雇われて1時間しか働かなかった者です。
神の恵みを受ける資格も値打ちもない罪人であります。


そう気がついた時に初めて、このたとえ話の恵みが理解できるのです。
「これは実はわたしのことであった」と。

神様が求められているのはこのような神の「全き愛」への「全き信仰」です。
自分に対する神の愛が、いつまでも、どこまでも、永遠に変わらない100%の愛であり続けることを、完全に信じる信仰です。
100%疑う余地のない真実な信仰です。
決して裏切ることのない神に信頼しましょう。
いつかで怒りに変わるのではないか、という不安から解放されることが大切です。
私たちが受けている大きな愛に感謝し、信仰の道を歩んでまいりたいと願います。

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